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徒然道草52  異聞「学生寮修道館」の物語⑥  さて、長州征伐である。朝廷は1864年7月23日(西暦8月24日)、幕府に対して長州追討の勅命を発した。これを受けて8月3日に将軍家茂は、長州討伐令を出した。幕府は長州藩主 […]

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 徒然道草51  異聞「学生寮修道館」の物語⑤ 薩摩藩の島津久光は、幕政改革に続き朝政改革に向けて動いた。中川宮朝彦親王(現天皇の高祖父)に朝廷の旧弊打破を申し入れ、公武合体の実現を訴えた。これを受け入れて孝明天皇は有志 […]

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 徒然道草50  異聞「学生寮修道館」の物語④ 徳川家茂が12歳で14代将軍になって3年後の1861年11月22日、天皇の妹である和宮の降嫁が決まった。通商条約を巡り悪化した幕府と朝廷の関係修復を目指し、幕府側が動いたも […]

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徒然道草その49  異聞「学生寮修道館」の物語③  徳川幕府の諸藩支配の要は参勤交代である。毎年、大名は江戸と領国とを往復させられ、正室と嗣子は江戸で人質とされた。諸大名は江戸と国元と、一年間ずつ交互に暮らすことを義務付 […]

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 阿部正弘はなぜ「葵の御紋」という幕府の権威を揺るがせ、御簾の陰に埋もれていた「菊の御紋」に接近したのであろうか。徳川幕府の鎖国政策によってキリスト教の領土侵略から日本は守られてきたが、欧米列強の植民地支配の影が東アジア […]

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 【徒然道草】は目魁影老(めさきかげろう)の思いを綴ったものです。必ずしも科学的な論証によった真実を記載したものかどうかは、自信がありません。写真、地図、概略図といったものを一切載せていません。 より知識を深めるためには […]

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最後の晩餐会のテーブルで私の隣に座ったのは、三菱商事の社員である若くて背の高いオマーンの好青年であった。近隣のアラブの国々と違って、オマーンには肥満な人が見当たらない。白いディシューダーに身を包んだその青年に向かって、私 […]

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明治維新におよそ3,000万人であった日本の人口は、1億2,000万人を超え、4倍に増えた。日本人で初めてオマーンを訪れたのは歴史学者の志賀重昂(しが しげたか)である。欧州訪問からの帰路、1924年(大正13年)にマス […]

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カブース国王の最大の内政は地方巡行である。毎年、多くの大臣たちを引き連れて天幕生活を送りながら、1カ月かけて国内およそ200部族を順番に回って、部族のリーダーたちの声を聴き、多くの国民と握手をする。マスカットを離れて、こ […]

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カブース国王は、父親時代の大臣をすべて罷免した。改革を進めるための人材は全く不足していた。首相の適任者はたった一人しかいなかった。それは兄に反発してドイツに移り住んでいた叔父ターリク・ビン・タイムールであった。それまでお […]

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