徒然道草61 異聞「学生寮修道館」の物語⑮
徒然道草61 異聞「学生寮修道館」の物語⑮
広島藩こそ、江戸幕府から明治政府への大転換を演出し、日本を異国の脅威から救った最大の功労者のひとつである――この思いを抱く私である。しかし明治新政府が行った「賞典禄」を見ると尾張藩の徳川慶勝や広島藩の浅野長勲の評価の低さに驚く。そうした中、嬉しい文章を見つけた。ここにそのまま引用する。☆穂高健一ワールドの「歴史の旅・真実とロマンをもとめて」から☆
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広島藩は徹底して、第二次長州征伐(幕長戦争)を反対した。
「第一次長州征長で、禁門の変に端を発した、長州問題は解決済だ。幕府が二度も戦いに挑む必要はない。正当な理由もない。こんな内戦などしていたら、欧米列強に日本は植民地化される。長州も、薩摩も外国と戦って負けているではないか。この戦争は止めるべきだ」
広島藩の藩主・世子と、執政(家老)辻将曹、野村帯刀らが大反対を唱えはじめたのだ。
京都においては応接係が天皇へ働きかける。大阪では、徳川家茂将軍へと、老中を通じて建言を出す。総指揮の老中小笠原壱岐守が広島に来ているので、何度も長州征伐の反対を言う。
さらには、岡山藩、鳥取藩、池田藩などにも反戦運動の仲間に巻き込む。
辻と野村は幕府の目や圧力を恐れていなかった。ともかく、戦争回避へと動いた。
全国の諸藩は広島藩の成り行きを見ていた。やがて、薩摩藩の大久保利通が、この広島の動きを見て、大阪城の老中に対して出兵拒否をしたのだ。
「勝海舟日記」にも、広島藩の反対運動のすさまじさが記載されている。
小笠原老中が怒って幕命だといい、辻将曹、野村帯刀を謹慎処分にした。すると、頼山陽の流れをくむ藩校の学問所の有能な若者(現役・OB)たちが怒り、城下の小笠原老中の宿舎を焼き払い、暗殺すると予告したのだ。そうなると、井伊大老暗殺以来の、重大事件になる。
広島浅野藩は、赤穂浅野の親藩であり、赤穂浪士の討ち入りもあった。こんど小笠原老中の殺害に及べば、浅野家はいかなる結果になるかわからない。
「ここは広島から退去して下さい」
浅野藩主がみずから小笠原に言い、彼は宇品港から軍艦に乗り、小倉へと逃げていったのだ。
広島藩は正式に出兵拒否をした。薩摩も出兵拒否しているから、各藩の寄せ集め部隊など士気は上がるはずがない。長州に勝ったところで、報奨などないし。
長州に軍艦を差し向けた諸藩も、大砲を撃てば、それだけ経済的に損をする、藩財政の圧迫になるから、軍艦を沈めるな、極力、大砲の弾を撃つな、という考え方だ。
これでは幕府が勝てるわけがない。
将軍家茂が死ぬと、それを理由にして休戦し、和平交渉が行われた。慶喜は仕掛けることはやるが、後始末は苦手で、海軍奉行の勝海舟に押し付ける。広島・宮島が交渉の場になった。幕府と長州との間で、中心になって動いたのが広島藩の辻将曹だった。
「こんな幕府はもう将来がない」
勝海舟と辻将曹の共通認識になった。
幕府と長州藩の和平交渉を成功させたあと、辻将曹がその勢いで、大政奉還運動へとエネルギーを使いはじめたのだ。やがて、薩長芸軍事同盟が成立し、軍事的な圧力で、慶喜将軍に大政奉還を迫ったのだ
大政奉還後の挙国一致(徳川の藩主たちも含まれる)になった。薩摩の下級武士たちは政治の実権が取れない。
「西郷隆盛を中心とした軍事クーデターが起きるかもしれないぞ。薩摩の下級藩士たちが政権の座を狙っている。かれらは京都の新御所政権を継続させる気はない。おおかた天皇を京都から連れ出し、別の場所で新たな政府を作るかも知れない。御所はしっかり守れ」
辻はそう認識していた。だから、とくに広島藩の藩士たちには、
「西郷には動かされるなよ。偽の勅許を平気で出させる男だからな。それも心得よ」
と楔(くさび)を打っていた。
辻将曹は小松帯刀とは親密だが、おなじ薩摩でも、討幕派の西郷隆盛にはたえず警戒心を抱いていた。さかのぼれば、第一次長州征討で、西郷が広島城下にきた時から、この男は和平を望まず、戦いで決着をつけたがっていると見抜いていた。その折には幕府側参与の西郷と長州藩との間に割って入り、辻は話し合いで幕長戦争を回避させた経緯がある。
実際に鳥羽伏見の戦いが起きた。これは軍事クーデターだった。松平容保らが5,6人の家臣と共に大阪から京都の御所へ直訴にくればよかったのだ。しかし、容保は幕府軍・会津桑名1000人以上の軍隊を引き連れて京都の上ってきた。
これは禁門の変を起こした、かつての長州藩と同様のミスだった。
薩摩の下級藩士たちの思うつぼだった。
「待ってました」
とばかりに、西郷隆盛は会津・桑名軍に攻撃を命じたのだ。もし、松平容保が5,6人連れならば、鳥羽伏見の戦いはなかっただろう。
西郷にすれば、禁門の変、鳥羽伏見の戦いと、二度も京都で戦った、武闘派の人物だ。西洋式訓練を受けた軍人で、幕府側を攻撃する。
広島藩はまったく動かなかった。薩摩軍や長州軍から、芸州藩の岸九兵衛隊に参戦を促しにきた。岸は399人を引き連れていただが、一発の銃も撃たせなかった。
「御所を守る皇軍だ。西郷たちの軍隊ではない」
ちなみに、岸九兵衛は辻将曹の実弟である。
この後において戊辰戦争が始まる。広島藩はここでも藩士を出さなかった。農兵の神機隊に、十数人の藩士が飛び込み自費で臨んだ。彰義隊の戦い、相馬・仙台藩の戦いに挑んでいる。
広島藩としては動かず。明治政府は神機隊の船越洋之助と池田徳太郎を県知事にしただけである。
恥部を握る浅野家の藩主や重臣は、明治政府のカヤの外に置かれた。会津落城(開城)の翌月には天皇を東京行幸で、江戸城に連れて行き、明治軍事政権を作ったのだ。戦いを嫌った広島藩の重臣で、この新政府に入りたがる人物はいなかった。
勝者が歴史を創る。薩長が都合よく日本史の教科書を作った。討幕の主体が薩長芸なのに「佐長土肥」に変わり、そして幕末史から広島藩は消えていった。
江戸時代は260年間は海外と一度も戦争しなかった。平和裏に大政奉還がおこなわれた。しかし、戊辰戦争から、日本は変わった。富国強兵の政策と徴兵制で10-20年ごとに海外と戦争をする軍事国家に膨張していったのだ。
最後は広島に原爆が落ちた。アメリカは戦争を止めさせるためだったという。その論議は別にしても、幕末に戦争を回避しようとした、執政(家老)辻将曹が広島に居たのに・・・
あえていう、広島に原爆が落ちて、広島城も、武家屋敷も、大半の幕末資料も焼けてしまった。でも、全部の広島藩の史料が消えたわけではない。ていねいに掘り起こせば、土佐がねつ造した「船中八策」を否定する資料も、薩摩藩が封印したかった資料も残されているのだ。
勝海舟は、幕末に全国を見渡してもろくな家老がいなかったけれど、辻将曹は卓越した能力で、特に優秀であったと語っている。
<追記:辻将曹のその後(ウィキペディアより)>
維新後は慶応4年(1868年)2月に徴士として参与内国事務局判事となり、同年閏4月には大津県知事に転じたが、早くも11月には罷免されている。翌明治2年(1869年)9月、復古功臣34人の一人として永世禄400石を下付され、明治3年(1870年)8月に待詔下院に出仕し同閏10月には辞任した後は、もはや新政府の中枢に据えられることはなかった。明治13年(1880年)には他の旧広島藩家老とともに「広島士族授産所」(のち同進社)を設立、困窮する旧士族の授産事業を進めた。明治23年(1890年)6月12日、元老院議官に任じられ、同月19日従四位、同月27日男爵に叙されて華族に列せられた。同年10月20日、元老院廃止にともない議官を非職となり麝香間祗候を仰せつけられた。明治27年(1894年)1月4日、死去(享年72)。特旨をもって正四位に叙せられた。
墓所は広島市内材木町(現在の中区平和公園内)の誓願寺に葬られたが、その後原爆投下により同寺が壊滅、戦後三滝本町(現西区)に移転したのにともない墓所もそちらに移された。