(徒然道草50)異聞「学生寮修道館」の物語④
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(徒然道草50)異聞「学生寮修道館」の物語④

2023年02月28日(火)9:45 AM

 徒然道草50  異聞「学生寮修道館」の物語④

徳川家茂が12歳で14代将軍になって3年後の1861年11月22日、天皇の妹である和宮の降嫁が決まった。通商条約を巡り悪化した幕府と朝廷の関係修復を目指し、幕府側が動いたものであった。和宮は6歳の時に有栖川熾仁(たるひと)親王と婚約しており、孝明天皇も最初は渋ったが、幕府の再三の要請を受け入れて和宮を説き伏せた。翌年3月11日に正式に婚儀が江戸城で執り行われた。(有栖川熾仁親王は王政復古で総裁職・東征大総督に就く: 最初の妃は慶喜の異母妹徳川貞子姫)

和宮の降嫁の時、孝明天皇の意向を受けて、岩倉具視は和宮に随行して江戸に向かった。老中と会見し、朝廷権威の高揚を図って幕府と折衝した。下級公家に過ぎなかった岩倉のこの活躍ぶりを快く思わなかった公家たちは、「佐幕派ではないか」と陰口を囁き岩倉排斥に動いた。孝明天皇も岩倉擁護の動きを見せなかったため、身の危険を感じた岩倉具視は職を辞し朝廷を去った。岩倉は僧に化けて寺へ逃げ込むなど身を隠す場所を求めて、あちこち移り住んだのち、洛北の岩倉村で蟄居生活を5年間続けた。幽居中も政治意欲を失わなかった岩倉の元には、大久保利通ら薩摩藩士や朝廷内の同志たちが訪れて、朝廷や幕府の動静、長州征伐や兵庫開港といった国事を論じ合って岩倉の知恵に学ぼうとした。岩倉自身も幕府との宥和や公武合体から討幕へと次第に考えが変わり、若い志士たちからは勤皇派の指導者のように尊敬を集めるようになった。岩倉は再び、朝廷や公家に対して積極的に建策をするようになっていく。しかし、孝明天皇から赦免されることは無かった。新天皇の王政復古によってやっと復権を成し遂げた。

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毛利敬親と長州藩の朝幕宥和工作に強い警戒感を抱いたのが、薩摩藩の島津久光であった。

1862年に入ると、島津久光は政局の主導権を握るために政治工作に乗り出した。

薩摩藩では、1858年12月28日、嗣子の無かった斉彬の遺言で久光の実子の茂久(17歳)が12代藩主となった。久光は「国父」として藩政の実権を握り、小松帯刀や大久保利通を登用して薩摩藩内を固めた。西郷隆盛は斉彬の遺志を継ぎ井伊直弼を排斥しよう謀ったが、逆に幕府に追い詰められ、鹿児島湾で僧月照とともに入水して自殺を図った。薩摩藩は奄美大島に西郷を隠し、死んだものとして幕府の目を誤魔化した。

島津久光は文久元年(1861年)10月公武周旋に乗り出す決意をしたが京での手づるがなく、大久保利通らの進言で西郷に召還状を出した。西郷は11月21日にこれを受け取ると翌1862年2月12日に鹿児島へ着き、2月15日に久光に召された。西郷隆盛は、江戸育ちの斉彬と違って鹿児島育ちの久光が「無官の田舎者で斉彬ほどの人望が無い」ことを理由に上京すべきでないと主張した。しかし、島津久光は1862年4月16日に兵1000人を率いて京都に上り、幕政改革を朝廷の説き、安政の大獄で謹慎させられていた公家の大原重徳(後に明治維新の参与)を赦免させ、幕府への勅使として派遣することを決めさせた。藩主でもない島津久光が藩兵を連れて江戸に入ることなど許されるはずもないが、天皇の勅使派遣の護衛と称して兵と共に江戸へ赴いた。そして幕政改革を老中に訴え、孝明天皇に挨拶するため将軍家茂(天皇の義弟)を上洛させること、一橋慶喜を将軍後見職に任ずること、政事総裁職(大老に相当)を設け松平春嶽を充てることなどを建策して、これを飲ませた。

和宮の実兄の孝明天皇の勅命と篤姫の実家の島津藩国父の意向を、幕府が受け入れる前例のない対応は、阿部正弘、徳川斉昭、島津斉彬、井伊直弼の時代には想像もつかないほどの出来事であった。幕府の権威はまさに地に落ちたことを、諸大名たちはまざまざと感じたに違いない。 

一橋慶喜とともに幕閣の中枢に座った松平春嶽は、諸大名にとって負担の重い参勤交代を3年に一度に緩和し江戸滞在も100日にするなどの改革を進めた。その浮いた費用で諸大名に砲台築造、軍艦建造といった国防力強化策を進めるためである。また、1862年8月25日には京都所司代の上に、京都守護職を設け、固辞する会津藩主の松平容保を説き伏せて、これに任じた。京都守護職の役料は5万石で、本陣を黒谷金戒光明寺に置き、藩士1000人を常駐させ、一年おきに交代させた。だが、物騒な時代に、会津から遠く離れた地の任務を藩士たちは嫌がった。そのため、松平容保は新選組を使って京都警護をやらせることになる。江戸時代は、大名は1万石で藩兵200人を召し抱えることが出来ると計算された。京都守護職の役料5万石は兵1000人に相当する。

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薩摩藩の島津久光が勅使を奉じて江戸へ入った直後、対抗心を燃やす長州藩は中津川で重臣会議を開き周布政之助、木戸孝允のリードで長井雅樂の航海遠略策を放棄して破約攘夷で公武周旋する方針を決定した。また土佐藩の武市瑞山は、参勤交代で江戸へ向かう藩主山内豊範の一行を慣例を破って京都に立ち寄らせ、朝廷に工作して長州藩と同様の国事周旋の勅命を取得した。

島津久光はこの上洛の時に、5月21日に京で寺田屋騒動を起こし、有馬新七らの粛清を藩士に命じて、藩内の尊王攘夷派を一掃した。また、久光の一行は9月14日に、江戸からの帰路に神奈川の生麦村で、行列と遭遇した騎馬の英国人4人を無礼討ちにし、3人を殺傷する生麦事件を起こした。これを過激派の志士たちは「攘夷実行」と称えた。翌1863年1月31日には、高杉晋作が久坂玄瑞、伊藤博文ら長州藩士10人と攘夷実行を見せつけるため英国公使館焼き討ち事件を起こした。

島津久光の建策を受けて1863年4月21日に将軍徳川家茂が上洛した。将軍が天皇の元を訪れるのは、家光以来229年ぶりのことである。6月6日に義兄の孝明天皇にお目見えした徳川家茂は、「攘夷の実行の約束」という重い土産を頂いた。直後の6月25日には長州藩が攘夷実行に踏み切り下関で外国商船を砲撃した。すぐさま米仏は艦船を派遣して猛烈な艦砲射撃を行った。長州の旧式の大砲は外国艦船にかなうはずもなく完敗であった。しかし長州は砲台を修復して下関海峡の封鎖を止めず、攘夷の姿勢は崩さなかった。長州以外に「攘夷実行」に踏み切った諸藩は無かった。

同じ時期、薩英戦争が発生した。一年前の生麦事件の賠償金支払いを巡りイギリスは艦船7隻を横浜から鹿児島湾に派遣した。双方が大砲を撃ち合う激しい戦闘(1863年8月15日―17日)により、薩摩は鹿児島城下の1割を焼失し砲台兵4人が戦死、イギリス艦隊は13人が戦死した。この実戦体験は、攘夷論に少なからぬ影響を与え、また薩摩藩とイギリスの結びつきが生まれる契機となった。

一方、京では長州藩と対立していた薩摩藩と会津藩が1863年9月25日、同盟を結んだ。

孝明天皇は、「攘夷実行」は徳川幕府が中心になって国防力を高め、諸藩の武力を結集することが不可欠であると考えていたと思われるが、一向に幕府の足腰が定まらない。その弱腰の主因が京都でウロチョロして幕府の足を引っ張る長州藩や三条実美ら公卿であると気付いていた。そのため、1863年9月30日に過激派排除を京都守護の松平容保と薩摩藩(兵は合わせて3000人)に命じた。いわゆる「旧暦の8月18日の政変」である。久坂ら長州藩士1000人は、三条実美ら「公卿7卿」と共に長州へと追い払われた。

土佐藩の山内容堂は1863年春、安政の大獄の謹慎処分を解かれ帰藩した。8月18日の政変で京から尊皇攘夷派が一掃されると、高知でも土佐勤王党の大弾圧に乗り出した。武市瑞山(半平太)のつくり上げたのは、長曾我部時代の武士であった山内藩から差別的扱いを受け続けて来た「下士」が大半を占める強力な土佐勤王党であった。容堂はまず、吉田東洋暗殺に関わったとみられる志士を片っ端から捕縛、投獄した。そして武市瑞山の指示かどうかを厳しく追及した。武市は潔白を訴えたが、1865年7月3日に切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅させられた。このため、土佐藩からは、多くの有能な若者が脱藩して、京都や、薩摩、長州、長崎などで交流することになる。

山内容堂は吉田東洋が養育した後藤象二郎を登用して公武合体工作を推し進めるが、西郷や大久保に敗れ、「武市瑞山を生かしておけば・・・」とひどく土佐藩の人材不足を悔やんでいる。



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