徒然道草63 異聞「学生寮修道館」の物語⑰
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徒然道草63 異聞「学生寮修道館」の物語⑰

2024年04月09日(火)1:21 PM

徒然道草63  異聞・暴論「一橋慶喜は関白太政大臣になろうとした」

 

 若者よ、高い志を持て!

 高い志とは何であろうか。幕末から、明治維新にかけて、日本で最も高い志を持っていた人物は、徳川慶喜であると私は思っている。

 水戸家から徳川将軍を出したい、そう願っていた徳川斉昭の夢は、その死後7年目にして7男である息子によって達成された。しかし、慶喜にとっては、将軍になることが生涯の目標ではなかった。この時代、もっと高い志が求められていた。それは日本という国を救うことであった。

 母親は112代霊元天皇のひ孫である。霊元天皇の第16皇子職仁(よりひと)親王⇒職仁親王の第7王子織人(おりひと)親王⇒織人親王の第12王女登美宮(徳川斉昭の正室)⇒斉昭の7男慶喜と続く天皇の玄孫である。「男系」は母親により途切れたが、天皇とは極めて近い血筋である。

 幕末に異国を追い払う攘夷論者であった父徳川斉昭は、尊皇思想に凝り固まった頑固者であった。鎖国か、開国か、で日本中が大騒ぎになったとき、水戸学の「尊皇攘夷」の考え方は、憂国の志士を勇気づけ、脱藩、決起に走らせる支えとなった。異国の脅威とどう向き合うか、選択に悩む阿部正弘は開明派の有力大名と協調して幕政を推し進めるが、朝廷の国事介入を招くことにもなった。

 孝明天皇は挙国一致して難局に対処する道を懸命に進めようとする。武力で外国を追い払うことの困難さを理解していない訳ではなかったが、一度決めた「破約攘夷」の考えを変えなかった。毛利敬親や山内容堂のように、ころころと変わる藩主を信用できなかった。将軍後見職の徳川慶喜や京都守護職の松平容保だけを信頼した。孝明天皇は義弟の将軍家茂が20歳という若さで病死すると、渋る徳川慶喜に将軍職就任を引き受けさせた。慶喜は江戸城ではなく、天皇の御側で忠誠を尽くすことを決心した。しかし孝明天皇は、慶喜が将軍になったばかりで急死した。

 徳川家康は、天皇を京都の御所に閉じ込めて「この国の神々の祭事だけを行う」姿にして支配下に置き、徳川幕府が国事を行い「この国の支配権を握る」幕藩体制をつくり上げた。だが慶喜の時代は、もはや世界情勢にこれでは太刀打ちできない。根本から政治の在り方を改めるしかない。

その道は、天皇に最も近い臣下になり、天皇の御側にいて、天皇と共に国事を執る、それしかないと慶喜は気付いた、と私は思う。

徳川慶喜は天皇の血を引いてはいたが新たに皇室と婚姻関係を結び(正妻は一条忠香の養女美賀子で江戸にいて別居中)、自ら太政大臣に就任して関白になる。徳川宗家の領地は奉還して朝廷の財政基盤を固め、諸藩にも分担金を割り当て徴収する。徳川宗家はせいぜい200万石の一大名にする。江戸の旗本は朝廷直轄の洋式軍隊30000人ほどに編成し二条城に配備、江戸の官僚も京に引っ越しさせて政務を担わせる。新しい勅許により「破約攘夷」は中止、毛利親子らも赦免して頂く。こうして京都を天皇親政の首都にする。

もしこれを、孝明天皇と共に実現するには、どのように取り組めばいいか。こうした構想や、手順を徳川慶喜は誰にも語っていない。語るほどの側近もいない。しかし、孝明天皇が了解を与えれば、

徳川慶喜はこれくらいのことは、やろうとしたのではないだろうか。

天皇と戦う「朝敵になることだけは絶対に避けなければならない」という忠誠心は強かったが、王政復古によって新天皇を奪われ、朝廷から排除され、内乱を恐れて自ら二条城を出て、もっとも警護に優れた大阪城に移った。しかし岩倉具視や大久保利通に騙され、その大阪城から誘い出され、西郷隆盛に謀られて鳥羽伏見の戦いに引きずり込まれた。

総ての失敗のもとは、「天皇の御側を離れてしまったこと」ー-徳川慶喜は、そのことを深く悔やんでいるが、誰にもそのことを弁明していない。



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