徒然道草59 異聞「学生寮修道館」の物語⑬
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徒然道草59 異聞「学生寮修道館」の物語⑬

2024年02月14日(水)3:10 PM

明治元年(1868年)から昭和20年(1945年)まで、人口3000万人の東洋の果ての島国は、海外諸国が驚く速度で富国強兵を成し遂げ、「一等国」へと駆け上がった。国土が狭いという弱点を克服するためる領土を広げ、農民を植民させて食料を確保、人口は7000万人に膨れ上がった。しかし民主主義は育たず、軍部独裁に走り国民を塗炭の苦しみに追い込んだ。無謀な世界大戦を東アジアに広げ、原爆2発を浴びて、日本は亡びた。明治維新からわずか「77年」後のことであった。

日本人は戦後復興に立ちあがり、世界第2位の経済大国にまで国力を引き上げた。農業を見捨てて工業力で4つの島に人口1億2000万人が暮らす平和ボケと揶揄される国家を築いたが、バブルが弾けて失速した。2022年7月8日に安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。敗戦からわずか「77年」後のことであった。日本はまた「77年」で滅びるのであろうか。

日本を占領して主権を奪ったアメリカは、再軍備を禁じる憲法を押し付け、農業国として「東洋のスイス」になる道を進ませようとした。天皇制の存続は許したが、アメリカは、日本を国破れ隷属するアメリカのいう事は何でも聞く属国に封じ込めた。新しい支配者は、明治維新がそうであったように、日本文明の価値観をひっくり返した。

唯一の核兵器保有の超大国アメリカの大統領ルーズベルトは、二度と世界大戦の起きない国際秩序を模索した。国際連合をつくり、戦勝国の米英仏中とソ連の5カ国が協調し、武力は国連軍だけが持つ平和な世界秩序を夢見た。しかしスターリンは共産主義イデオロギーの盟主の仮面を被ってソビエト連邦を牛耳り、スパイを使って核兵器技術を盗み取り、決して軍事力を手放そうとはしなかった。そればかりか、植民地から独立するアジア、アフリカや中国は、ソ連の支援と指導のもとに「ドミノが倒れるがごとく」次々と社会主義国になった。アメリカの超大国の座は揺らぎ、東西冷戦が始まった。脅威に晒されたアメリカは「自由主義陣営」を守る盾とするため、日本を再武装させる方向へ大きく舵を切った。それに対してモスクワは日本にイデオロギー攻勢を仕掛け、左翼陣営に膨大な資金を注ぎ、社会主義革命に向け大衆運動を煽った。日米安保条約は締結から10年目となり改定するかどうか、国会手続きの節目の年を迎え、「自由主義」か「社会主義」か、日本の針路を巡る論争が国中を巻き込んで沸き起こった。1960年、国会に押し寄せたデモ隊が警察と衝突し、女子大生が死亡する事故が起こった。岸内閣は「日米安保改定」の国会議決の後、総辞職した。

岸信介は山口県の出身で東大卒業後は農商務省に入った。その後、満州国の官僚に転じて辣腕を振るい「革新官僚」として陸軍からも満州の関東軍からも嘱望された。太平洋戦争を起こした東条英機内閣に商工大臣として初入閣した。敗戦後はA級戦犯として巣鴨刑務所に入れられたが死刑は免れた。公職追放が解除されると吉田自由党に入党して政界に復帰する。しかし、対米追従姿勢の吉田茂と対立して除名、日本民主党の発足に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長そして首相にまでなった。主権国家の確立を目指した郷土の先輩の吉田松陰のように、アメリカの奴隷とされた日本を、真の独立国家にしようとした。それは太平洋戦争により日本を滅ぼした責任を感じていたためかもしれない。安倍晋三は岸信介の一人娘が母親であり、祖父の遺志を継ぎ、アメリカの実質支配から抜け出せない日本を、憲法改正によって「覚醒」させることに政治家として生涯を掛けた。その死は、派閥岸派の流れを継いだ父親の安倍晋太郎と同じ67歳であった。

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前田藩のあった本郷の敷地に日本初の大学として、1977年(明治10年)4月12日に東京大学が開校した。その裏の弥生町には浅野藩の敷地が有り、かつてこの浅野藩邸の一角には東大生たちが暮らす学生寮修道館があった。その後、そこは工学部の拡張に伴い浅野キャンパスになり、学生寮は移転を余儀なくされ、紆余曲折を経て最終的には近くの旅館を買い取って移設された。弥生町のこの「修道館」は20名ほどを収容する古い木造の学生寮で、「芸備協会」の理事との交流もほとんどなく、新入生の募集や選考、食事をつくる小母さんとの雇用契約も寮生自治組織の学生協議会に丸投げの状態であった。

協議会は毎月開かれた。在館生は全員参加で欠席も遅刻も許されず、議長と書記以外は着席順は自由であった。机も椅子も無い畳敷きの部屋に胡坐で円陣を組み、議案については全員が意見を表明した。この部屋は、麻雀部屋になり、囲碁部屋になり、クラシックレコードを聴きながら一人涙する部屋であった。もとは小さな旅館であったため食堂、洗濯場、トイレ、協議会室の他に狭い一人部屋や相部屋が10室ほどあり、風呂は無かった。浅野キャンパスを越えて根津の銭湯に通った。向ヶ丘から下る根津はかつて遊郭があり、「栄華の巷」とうたわれた下町である。東大工学部の敷地ではキャッチボールをした。

寮費は月に8000円、朝食と夕食が用意された。門限は無かった。夜8時を過ぎると、まだ食べずに残っている食事棚のメシはだれが食べても良いルールがあった。この獲得は競争になった。風呂帰りには、仲間同士でポケットの中を探り合い、小銭をかき集めて、根津の「肉豆腐」家で酒を飲んだ。修道館の部屋で酒を飲むときはサントリーレッドの大瓶であった。寿司屋なんかは無縁の暮らしであった。学生の勉強は大学や図書館でするもので、修道館は学問とは無縁に近い状況にあった。公務員上級職、外交官や司法試験を目指す若者は、入館はしたものの、ほうほうの体で逃げ出した。大学には登校はしたが雀荘に入り浸るもの、地下鉄東西線の掘削工事で深夜に道路下に潜り日銭を稼ぐもの、左翼セクト(社学同、革マル派、中核派、共産党の民青、社会党の社青同など)がマイクでがなり立てる学生集会に顔を出すもの、密かにデートするものなど青春の日々は多彩であった。家庭教師という真面なアルバイトにありつけるものは多くは無かった。

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木造の修道館は、玄関に入れば、奥の部屋まで揺れるほど老朽化が進んでいた。さすがにこれ以上放置できなくなり、昭和40年初め、木造の建物を取り壊し、その年の秋には鉄筋コンクリートの建物が完成した。募金で建て替える構想は断念し、建設費用は広島県に頼り、県債で賄われた。新しい修道館は、1階は玄関、管理人部屋、食堂、風呂、協議会室など、2階と3階は学生寮で2段ベッドと机の2人部屋が24部屋で寄宿生は約50人に倍増、4階は洗濯機が据えられ物干しのある屋上であった。協議会室は広々とし畳の香が素晴らしい。誰もが喜んだ。しかし、大問題が発生した。

芸備協会はこれまでの「放任自治」に代わる新管理規定を定め、署名捺印を要求してきた。さてこれを受け入れるかどうか、学生協議会の論議は白熱した。旧修道館が取り壊された工事期間中も在館生は放り出されること無く、代わりの宿舎を3カ所に確保して貰い、そこに移り住む便宜を受けていた。新しい修道館が出来ると、全員そのまま受け入れると保証もされていた。何の心配もしていない学生たちは、まさか「完全自治」が覆されて、「これからは入寮選考を理事が行う」ことになるとは予想もしていなかった。建設費用が県から出ることは漏れ聞いていたが、そのことにより、修道館管理に県庁という行政が関与することになる恐れを理解していなかった。

寮生はとりあえず新しい管理規定に署名捺印し新築の修道館に入居した。そして、芸備協会の理事たちが行おうとした入寮選考を行わせず、面接会場を乗っ取って(?)自分たちで選考を強行した。入寮の意志を示した学生は深夜にこっそり入居させた。こうして「完全自治」の継承をめぐって芸備協会理事との紛争が始まった。理事たちは激怒したが、寮生は話し合いを求め、またこれまでと同じように自主選考を進めた。各大学にポスターを貼って入館希望者を募集し、合格した学生を入居させて、新修道館は満杯になった。新しく着任した管理人は、困惑したであろうが、揉めることも、小競り合いも、一切無かった。



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