徒然道草58 異聞「学生寮修道館」の物語⑫
1868年9月8日(西暦10月23日)に元号が「慶応」から「明治」に変わり、明治元年が始まった。その時に慶応4年1月1日に遡って新元号は適用されるとした。この年は閏4月が有り、一年間は13カ月383日であった。浅野長勲は1869年(明治2年)1月24日に、24歳で養父の浅野長訓から家督を継ぎ12代目の藩主になった。2月4日に新政府の参与に任じられ、3月6日には従2位中納言に叙任されるとともに議定に就任した。5月17日には免職となり、6月17日には版籍奉還が行われ藩主から広島知藩事に命じられた。9月26日には正2位に昇進した。明治新政府は目まぐるしく変遷を繰り広げ、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が断行され、広島知藩事は免官となって、諸藩大名は領国も藩士も領民も完全に取り上げら、太政官令により東京移住を命じられた。
王政復古により明治維新が始まるまで活躍した、尊皇派の志士も佐幕派の有能な武士も多くが殺され、それを操ろうとして逆に下級武士に騙された藩主たちは、浅野長勲より一回り以上年長であり、長勲を支えた家老辻将曹も勝海舟と同じ歳、西郷隆盛より5歳上であった。つまり幕末史の中で主役になるには、広島藩は藩主は若過ぎ、家老を凌ぐ有能若手は育たず、藩財政は困窮していた。
徳川慶喜は1913年(大正2年)11月22日没(76歳)=将軍でただ一人「神道」で葬式を行った。
岩倉具視は1883年(明治16年)7月20日没(57歳)=公家一の陰謀家として明治新政府を演出した。
島津久光は1887年(明治20年)12月6日没(70歳)=「西郷と大久保に騙された」と述べた。
毛利敬親は1871年(明治4年)5月17日没(52歳)=「そうせい侯」と呼ばれ志士には慕われた。
山内容堂は1872年(明治5年)7月26日没(44歳)=酒と女と詩を愛し自ら「鯨海酔侯」と称した。
松平春嶽は1890年(明治23年)6月2日没(61歳)=慶喜の復権のため岩倉具視と戦い続けた。
伊達宗城は1899年(明治32年)12月20日没(74歳)=大村益次郎に「蒸気船」を造らせた。
鍋島直正は1871年(明治4年)1月18日没(58歳)=明治新政府に多数の有為人材を送り込んだ。
浅野長勲は1937年(昭和12年)2月1日没(94歳)=昭和まで存命「最後の御殿様」(従一位侯爵)
辻将曹は1894年(明治27年)1月4日没(70歳)=明治維新の最大の功労者になり損ねた広島藩家老。
勝海舟は1899年(明治32年)1月19日没(75歳)=明治維新を後押し、成り上がり大風呂敷旗本。
小松帯刀は1870年(明治3年)8月16日没(34歳)=西郷や大久保を「掌の上で躍らせた」。病死。
西郷隆盛は1877年(明治10年)9月24日没(49歳)=薩摩の軍人を演じ続け斉彬と同じ歳で自決。
大久保利通は1878年(明治11年)5月14日没(47歳)=岩倉具視と組み幕府を倒した大奸物。暗殺。
木戸孝允は1877年(明治10年)5月26日没(45歳)=長州随一の良識人、5か条御誓文作成。病死。
伊藤博文は1909年(明治42年)10月26日没(68歳)=維新三傑亡き後に辣腕発揮。元勲。暗殺。
坂本龍馬は1867年(慶応3年)12月10日没(31歳)=「ついに新しい日本」を目前にしながら暗殺。
板垣退助は1919年(大正8年)7月16日没(82歳)=最強硬の討幕派軍人から自由民権運動家に変身
大隈重信は1922年(大正11年)1月10日没(83歳)=幕末から大正まで政府・在野を泳ぎ回った。
吉田松陰は1859年(安政6年)11月21日没(29歳)=「日本救え」志士の心に火をつけた。刑死。
久坂玄瑞は1864年(元治元年)7月19日没(24歳)=松陰の遺志を継ぎ挙兵、禁門の変に敗れ自決。
高杉晋作は1867年(慶応3年)5月17日没(27歳)=「面白きことも無き世を面白く」生き病死。
山県有朋は1922年(大正11年)2月11日没(83歳)=首相・陸軍元帥・元老の毛利藩閥の大ボス。
大村益次郎は1869年(明治2年)12月7日没(44歳)=徴兵制国軍を目指した軍事の天才。暗殺。
小栗忠順は1868年(慶応4年)5月27日没(40歳)=幕府戦費調達や軍備強化に凄腕。官軍が斬殺。
由利公正は1909年(明治42年)4月28日没(79歳)=奇策「太政官札発行」で新政府の金欠救う。
岩崎弥太郎は1885年(明治18年)2月7日没(50歳)=藩閥勢と産軍結託財閥をつくった大奸物。
外様大名の佐賀藩(肥前35万石)の10代藩主の鍋島直正(正室は11代将軍家斉の18女盛姫)は島津斉彬の従弟であり「蘭癖大名」と呼ばれた。藩財政改革や教育改革を成し遂げる一方で、幕府から課せられた長崎警備の強化のために西洋の科学技術の導入を進め、精錬方を設け反射炉を建設し、西洋式大砲や鉄砲の製造に成功、さらに蒸気船(凌風丸)をつくり西洋式帆船の海軍基地も設置した。そして薩摩の島津斉彬にこの技術を提供した。しかし盟友であった阿部正弘が没した後の中央政界では佐幕、尊皇、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、藩士の勝手な尊皇攘夷運動を禁じている。1855年に長崎海軍伝習所が作られると学生を派遣し、後に大隈重信を長崎に派遣して英語を学ばせた。1862年12月25日には上京して関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請した。「長崎警備は他大名でも担当できるが、大阪・京都の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」と発言をしている。鍋島直正が育てた有能人材の中から、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任らが明治新政府に出仕して活躍した。
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浅野藩士は戊辰戦争が終わり、東京が首都となった時代、薩摩、長州が牛耳る明治中央政府に加わることを快しとせず、広島へ引き揚げた。そして浅野長勲とともに郷里の興隆に取り組む。王政復古に大きく貢献したにもかかわらず、岩倉具視や薩長土肥の藩閥の中央政権から排除された悔しさを晴らすために、浅野長勲は知藩事として力を注いだのは、優秀な若者の育成であった。英国人を雇い英国式軍隊を編成して藩士の練兵を行うとともに、少年67人を英仏に留学させ、文武塾を設けて藩士の子弟300人を寄宿舎に入れて人材育成を推進した。しかし知藩事としての藩主の仕事はわずか2年で終わった。
新政府は明治4年に廃藩置県を断行し、浅野藩は広島県となり、藩校も廃止された。全国の領土も民もすべて天皇親政の明治政府が握り、「文明開化」の名のもとに西洋の真似ごと政策が強引に進められた。武士は廃刀令により身分的特権を奪われ、断髪令により日本文化の象徴ともいえる髷は禁止され、四民平等に徴兵される国家の軍隊の創設、各藩の象徴であったお城はことごとく破却。こうして、江戸時代まで育んできた日本の文明はことごとく否定された。1872年(明治5年)にはフランスに倣った義務教育制度を導入、国民皆教育を実現する小学校が開設された。その小学校の上に、中学校や専門学校、さらには国家づくりを担う人材育成を担う高等学校、大学校が整備された。どの国家でも発足したばかりの時は、縁故人事が幅を利かすが、明治中央政府も官僚や警察や軍隊のポスト争いだけでなく、大学入学でも藩閥政府の意向を受けた推薦者が優先される状況にあった。浅野長勲は公立学校を視察し、その人材教育の進め方に不安を感じた。伝統を無視したあまりにも画一的な授業だったからである。長勲は、広島の有能な若者を教育するために、私財を投じて閉鎖となっていた藩校の再開を決意した。1878年(明治11年)に広島藩の泉邸(現在の縮景園)に私学浅野学校を開校し、1881年(明治14年)には、藩校時代の名前にちなみ、修道学校と改めた。
阿部正弘が開校した藩校誠之館は、現在は公立の福山誠之館高校となっているが、各地の公立高校の中には藩校の名称を引き継ぐものも多いが、私立学校として藩校の精神を引き継ぐものは無い。
辻将曹は広島で廃藩後の元藩士たちの支援に取り組んでいるが、明治の初めには元藩士たちの横の繋がりを求める「芸備協会」がつくられた。しかし次第に「派閥」が生まれ、宥和を図るために会長として、浅野長勲を迎えることになった。この「芸備協会」は修道学校の創設者である浅野長勲の意向を入れて、人材育成のための奨学金の貸し付け事業を担うようになり、東京大学裏にあった浅野藩邸の一部は東大生らの学生宿舎「修道館」として提供されるようになった。明治30年には芸備協会は「財団法人」になり、理事長は代々浅野氏が務めている。現在の「芸備協会」は公益財団法人の認可を受け、浅野家が代々引き継いだ代表理事(名称変更)は浅野藩17代目当主の浅野長考が務め「広島藩の建学の精神」を守っている。