(徒然道草49)異聞「学生寮修道館」の物語③
徒然道草その49 異聞「学生寮修道館」の物語③
徳川幕府の諸藩支配の要は参勤交代である。毎年、大名は江戸と領国とを往復させられ、正室と嗣子は江戸で人質とされた。諸大名は江戸と国元と、一年間ずつ交互に暮らすことを義務付けられた。江戸と国元の二重生活や参勤交代の莫大な経費を賄うために藩財政は困窮を極めた。参勤交代は、日時、経路、供の人数などを幕府に届けなければならず、厳しく規制された。勝手に京都に立ち寄り、公家や朝廷と交流することは出来なかった。
武士の主従関係は、主君から領地を安堵してもらうことの見返りとして、主君の命令が有れば武具を整えて戦に駆け付けることである。騎馬武者は20人から30人の足軽を連れて出陣した。足軽の兵装は、陣笠もしくは鉢巻き、胴・籠手・脛当の装具、大小刀・槍・鉄砲・弓などの武器が貸与された。食料は米3升と味噌・梅干しを腰に巻き付けて、草鞋・竹の水筒・野外寝具の寝むしろなどは自前で用意した。
この主従関係は、将軍と大名の間でも同じであった。諸大名は幕府によって領国支配を認められていたが、幕府に対して「税金」を納める義務を負わされてはいなかった。その代わりに、命令が下ればいつでも戦場に駆け付ける軍役を課せられていた。では、戦の無い時代に、大名に忠誠を誓わせる証をどのような形で求めるか。それが参勤交代であった。大名は自国領を出るときは、常に戦いの備えを要求された。10万石の大名では、戦時の出陣の形を整えて騎馬の武士は10騎、足軽80人、中間(人足)140人から150人とされた。
加賀の前田藩の参勤交代は、お供を4000人連れる大行列であった。お殿様が使う湯舟、調度道具、便器、布団の下に敷く暗殺防止用の鉄板、予備の駕籠まで行列と一緒に運ぶ藩もある一方で、小大名や1万石以下ながら所領を持つ旗本の参勤交代は、経費節減のために涙ぐましい努力を強いられた。毛槍や馬印や中間たちの所作は藩ごとに特徴があり、民衆にもどの藩の大名行列か判別できた(ガイドブックもあった)。宿泊先の本陣を出立する時は仰々しく行列を整えるが、宿と宿の途中は足早に急がせ一日に30㌔~40㌔も歩いた。お供の足軽、中間、小者などは臨時雇いの人足を充て、大名行列のおよそ三分の一が藩士ではなく「アルバイト」というのが実態であった。初期の大名行列では宿から宿へ荷物を運ぶ「宿継人足」が使われたが、国元から江戸まで荷物を運ぶ通日雇が始まり、その人員を斡旋する専門の「飛脚問屋」という業者も登場した。
この参勤交代は、諸藩の財政窮乏化を狙う幕府の重要な政策であり、諸藩もまた派手な演出を競い合った。つまり財力を蓄えて国元で密かに富国強兵を進め「徳川幕府に対して謀反の疑いあり」と睨まれることのないように必死に努めた。(後に幕府は行き過ぎを戒め経費節減を命じている)
*大名は領国を離れるときは常に兵を連れるという例外が、徳川家康の堺見学であった。織田信長に
招かれて三河から安土城を経て堺を訪れ、物見遊山を楽しんでいるとき、織田信長が本能寺で殺さ
れたという知らせが届いた。家康は直ちに堺から領国に戻ろうとしたが、わずかの手勢で元来た道
を引き返すと明智光秀に殺されるため、密かに伊賀の山道を突破して、浜松城に逃げ帰った。
ところが幕末になり、幕府も朝廷も広く諸藩や開明的な志士から意見を募らざるを得なくなり、京都への寄り道禁止の状況は大きく変わった。特に朝廷や公家は知識が乏しく、鎖国か開国か判断が全くできなかった。長州藩、芸州藩、薩摩藩、土佐藩などは幕府の京都所司代や朝廷の有力公家たちに盛んに付け届けを行い、参勤交代の途中に、京都に立ち寄る機会を狙った。「藩主の体調が優れぬため、ちょっと休憩」と称して伏見藩邸などに数日留まり、家老らを上洛させて公家と接見させた。開明派の有力大名は江戸だけでなく、京都、伏見、大阪、長崎などにも藩邸を置いた。徳川御三家や前田藩、伊達藩などは参勤交代の経路として京都近くを通ることが無かった。このため、名目が立たず、幕府の許可なく朝廷や尊皇の志士たちと接することが出来ず、時代の潮流から大きく出遅れることとなった。
京都所司代は3万石以上の譜代大名から任命され、役料1万石が給され与力50騎、同心100人が付属。京都の統治、朝廷や公家の監察、西日本諸大名の監視、五畿内や近江、丹波、播磨の8国の民政を総括した。所司代の役所や住居は、二条城の北側に隣接して設けられ、二条城は使用されなかった。江戸の老中になるための出世コースの役職の一つであった。
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大老になった井伊直弼は、阿部派の有力大名を排除して、譜代大名による幕政を復活させた。そして、朝廷の政治関与を拒み、アメリカとの日米修好通商条約を結び、さらにイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも条約締結を進めた。長崎、函館、下田(1859年には閉鎖)、新潟、神奈川、兵庫の開港も約束した。井伊直弼は、欧米と戦う国力の無い日本として、やむを得ない選択と考えただけで、攘夷を頑なに主張する徳川斉昭や孝明天皇とは相容れなかったが、開明的な諸大名と考えに大きな違いがあった訳ではない。植民地は一国による領土奪取であり、多国間で条約を結ぶのはそうした一国支配を防ぐ狙いもあった。
阿部正弘、島津斉彬、井伊直弼、徳川斉昭が死去すると、井伊直弼の意向とは異なり、幕府だけが国事を担うのではなく、天皇こそ日本の中心であるべきだという尊皇思想が広がった。もともと中国にあった「尊王思想」を、藤田東湖が「尊皇思想」として確立したのが水戸学である。しかも水戸藩が編纂した大日本史は、足利氏が建てた「北朝」ではなく後醍醐天皇の「南朝」を正統とした。水戸藩沿岸にはしばしば外国船が現れ、捕鯨船の遭難などを巡っていざこざも発生していた。このため、徳川斉昭は危機感を募らせ、攘夷に傾き、水戸学は「尊皇攘夷」の思想として憂国の志士たちによって広く支持を集めて行った。
外国の脅威から日本の国土を守るためには、欧米列強の侵略を撥ね返す武力が不可欠だが、憂国の志士や下級武士たちに列強と戦うだけの武力はない。幕府や有力大名にその覚悟を求めても軍備も財力も無い。この絶望的な状況を突破する道はどこにあるか。日本とは何か、異国とは何か、その答えを国学に求め、蘭学の求め、いつしか憂国の志士たちは「天皇こそが日本を一つにまとめる権威」と考えるようになった。そして、開明派の大名も巻き込み、実践闘争に突き進んでいった。
孝明天皇は、この情勢にどう振舞うべきか悩み続け、「あくまでも破約攘夷」を貫く道を選んだ。
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どうすれば挙国一致してこの国難に打ち勝つことが出来るか。佐久間象山や吉田松陰ら先駆的な思想家の主張の中から生まれたのが、長州藩の長井雅樂の「航海遠略策」である。
―――朝廷がしきりに幕府に要求している破約攘夷は世界の大勢に反し、国際道義上も軍事的にも不可能である。そもそも鎖国は島原の乱を恐れた幕府が始めた高々300年の政策に過ぎず、皇国の旧法ではない。しかも洋夷は航海術を会得しており、こちらから攻撃しても何の益も無い。むしろ積極的に航海を行って通商で国力を高め、皇威を海外に振るう事を目指すべきである。朝廷は一刻も早く鎖国攘夷を撤回して、広く航海して海外へ威信を知らしめるよう、幕府へ命じていただければ、国論は統一され政局は安定する(海内一和)ことだろう―――。
長井雅樂は、毛利敬親から厚い信認を受けて1858年に藩の重役である直目付となり、1861年春この「航海遠略策」を藩主に建白した。毛利敬親はこれを藩論として採用、朝廷、幕府に対し周旋に当たるよう長井に命じた。同年5月12日に上京した長井は、議奏の権大納言正親町三条実愛に面会し、航海遠略策を建言。これに賛同した正親町三条は長井に書面での提出を求めた。建白書に目を通した孝明天皇もこの論に満足し、朝廷の了解を得た長井は、幕府要人への入説を命ぜられて6月には江戸へ下った。しかし、江戸の長州藩邸では長井に反発する空気が横溢していた。木戸孝允、久坂玄瑞らは破約攘夷を主張しており、長井の策は勅許なしで条約を結び開国したことを是認するもので、天皇をおろそかにする政策だと主張した。吉田松陰を処刑された松下村塾生にとって受け入れがたいものであり、長州藩の執政である周布政之助を説得し、藩論をひっくり返させた。
一方、長井雅樂は7月2日に老中久世広周を説得、さらに8月3日には老中安藤信正にも面会した。外様大名の陪臣である長井が朝廷や幕府要人の間を周旋するのは異例中の異例であったが、公武合体が進まず窮地に陥っていた幕府にとっては渡りに船の政論であったため、二人の老中は大いに賛同し、長井に引き続き周旋を求めた。そこで長井は本格的に推進するため萩に戻り藩主の出府を促した。これに反対する周布、久坂は藩主出府を阻止しようとする。そのため毛利敬親は11月13日に江戸に到着したものの、藩内の強硬な異論に鑑み、老中の久世、安藤の要請にもかかわらず航海遠略策に消極的な姿勢となってしまう。その一方で長井は12月8日には、幕府に正式に航海遠略策を建白した。ところが翌年の文久2年正月3日(西暦1862年2月13日)、航海遠略策の推進役の一人であった安藤信正は水戸浪士ら6人の襲撃を受けて負傷(坂下門外の変)、失脚してしまった。孤軍奮闘の長井雅樂は3月10日に江戸を発ち京へ上った。
京都の朝廷は、一年前に比べて攘夷派の動きが活発化しており、3月18日、長井は正式に朝廷へ航海遠略策を建白するが、工作は失敗に終わった。長州藩内では、久坂玄瑞が藩重役に長井雅樂の弾劾書を提出するなど破約攘夷派の力が強まり、藩論の分裂を恐れた毛利敬親は長井に江戸帰府を命令、4月13日に京を退去した。長井雅樂は6月には罷免され、翌1863年には切腹を命じられた。長井本人はこの措置に納得しておらず、長井支持の藩士も多くいたが、藩論は二分された。内乱が起こることを憂いて長井雅樂は切腹命令を受け入れ、同年2月、自宅にて切腹した。(43歳)
藩主「そうせい候」は長州藩名門の忠臣を「内乱を塞ぐため」に見捨てた。
公武宥和のために「航海遠略策」に期待を寄せた孝明天皇にとっては、長州藩主のこの行動は「裏切り」であった。長州藩は許せないという不信感はここから始まったと、私は思う。
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江戸幕府は、軍役に替えて諸大名に参勤交代を命じたが、江戸城の周囲に広大な土地を無償で貸し与えた。その土地には各藩は藩邸を自費で建て、藩主の江戸詰め時の住居、正室や子供らの暮らす屋敷、江戸家老たちの住居や政務を行う場所、参勤交代で国元からやって来る藩士たちの表長屋などを用意した。藩主は勝手に江戸の町を物見遊山のため護衛の兵を連れて出歩くことは許されなかった。そこで藩邸から少し離れた場所に、庭園や茶室を設けて寛ぐことにした。こうして諸大名は幕府から新たに土地を貸し与えられ、「上屋敷」の他に「中屋敷」「下屋敷」「蔵屋敷」を設けた。中屋敷は嗣子が住んだが、上屋敷が焼失した時の藩主らの緊急避難場所でもあった。さらに藩主が自ら農地を入手して建てた妾を囲う「お抱え屋敷」もあった。藩邸に他藩の大名を招いて交流したり、時には将軍自ら「御成り」として訪れることもあり、しばしば莫大な出費を余儀なくされた。
一方、歴代将軍は正室の他に、多くの側室を抱えて大量の子供をつくった。その子供たちの半分以上は早世して無事に育つものは少なかったが、将軍になる嗣子以外の男子は御三家、御三卿、親藩大名などに養子に出した。姫たちは外様大名にまで輿入れした。徳川家斉が娘を押し付けた大名家は①長女淑姫⇒尾張徳川家②7女峰姫⇒水戸徳川家③11女浅姫⇒福井松平家④15女元姫⇒会津松平家⑤16女文姫⇒高松松平家⑥18女盛姫⇒佐賀鍋島家⑦19女和姫⇒長州毛利家⑧21女溶姫⇒加賀前田家⑨24女末姫⇒広島浅野家⑩25女喜代姫⇒姫路酒井家⑪26女永姫⇒一橋徳川家⑫27女泰姫⇒鳥取池田家に及んでいる。将軍の姫を正室として迎え入れるために、浅野藩の場合は41万4666両(藩の収入の44%)を使っている。その一方で水戸藩は化粧料1万両を幕府から毎年贈られている。この姫たちは、お互いの贈答品や髪飾りまでも競い合い、藩財政を大きく傾けさせる要因の一つとなった。明治2年の版籍奉還時の浅野藩の借金は374万両(一両6万円として2244億円)である。