徒然道草62 異聞「学生寮修道館」の物語⑯
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徒然道草62 異聞「学生寮修道館」の物語⑯

2024年04月09日(火)12:29 PM

徒然道草62  異聞・暴論「なぜ長州藩は取り潰しにならなかったのか」

 

なぜ、長州藩は取り潰しにならず、生き延びたのであろうか。

幕府に睨まれた大名は、将軍の命令により、領地を取り上げられて廃藩になる、それが江戸時代の幕藩体制の掟であった。天皇が長州藩を「朝敵」とみなし、幕府に討伐を命じたことは異例のことであったが、それを受けて将軍は「廃藩命令」でなくて、なぜ「長州征伐」の出陣を諸藩に命じたのであろうか。大坂冬の陣・夏の陣と同じように軍役命令に従い諸大名は、自費で大軍を率いて広島まで進軍した。お陰で広島城下は俄か景気となった。

長州藩は、第一次征長戦争では、開戦することなく降伏したが、藩主は改易されることもなく、謹慎処分だけで生き残った。廃藩されることはなかったのである。

「国を夷荻から守る」ことは「正義」である。正義を掲げて行動し、たとえ軍事行動に及んでも、幕府も朝廷も、廃藩に出来ない――これは日本の歴史において、驚異的なことであった。諸大名は、ひっくり返るほど驚いたことだろう。

正義のための行動は、幕府の命令をも凌ぐ、この意識の芽生え――それこそが長州藩がこの時代にもたらした「覚醒」である。憂国の志士たちもこの革命的目覚めによって、脱藩し、実践行動に走り、幕藩体制の転覆を成し遂げ、異国の脅威を跳ね除ける。

廃藩を免れた長州藩は、幕府に恭順姿勢を示すため保守派が藩政を握り改革を進めることになる。この時に高杉晋作は「正義派」が「俗論派」に敗けたと語った。「正義派こそが勝利の道である」という確信を吉田松陰によって刷り込まれた若者たちは、武力蜂起し、俗論派に戦いを挑んでいった。領民は、幕府に恭順する藩政首脳部の編成した「討伐軍」よりも、若者たちの「正義軍」を支援し、軍費も食料も宿舎も提供、さらに農民兵の諸隊まで続々と結成して挙兵に加わった。こうして長州はクーデターが成功した。

開明派の諸大名は、幕府が朝廷と協力して公武合体政体をつくり上げ、挙国一致して異国に対抗する新しい「日本という国家」をめざす努力を続けた。しかし、幕府も朝廷も、諸大名も公家も、話し合いは「船頭が多ければ多いほど山に登る」という思惑が絡みあい、天皇と将軍は信頼関係で結ばれていたが、二人とも排除されるという最悪の状況に陥っていった。

薩摩の小松帯刀は島津久光に家老として重用され、大きな権限(資金や外交、藩兵指揮)を与えられて上京し、大久保利通、西郷隆盛らを使って、有力藩主らの公武合体工作の裏方役として暗躍するが、話し合いの限界を悟り、武力での討幕に向けて長州、土佐、芸州との軍事密約に踏み切る。京を脱出した木戸孝允は帰藩して高杉晋作らと合流し長州兵の京都進軍を進め、広島藩の辻将曹は薩摩と共に京の御所警護役を会津桑名兵から奪う。板垣退助は山内容堂を説得して土佐で討幕軍の準備を急ぐ。ことに板垣は後藤象二郎らの話し合い路線を批判して「武力で出来た幕府は所詮は武力でしかひっくり返せない」と主張した。毛沢東の「政権は銃口から生まれる」という言葉を、80年も前に述べている。

 一方、内乱は、異国による侵略の「呼び水」になる、と最も恐れていたのが徳川慶喜であった。

 慶喜は天皇の血を引いているが、朝廷との内戦を避けたのは、国家や民族にとっての「正義」の志を持っていたからでもある。フランス革命やロシア革命といった革命戦争では、数万人、数十万人、数百万人が殺された。しかし日本の戊辰戦争で死んだのは、官軍3,556人、旧政府軍4,707人、合わせて8,263人である。(ウキペディアより)

 日本人同士の戦いは、徳川慶喜の英慮により、世界の革命戦争とは桁違いに少ない犠牲者で終わった。そして江戸壊滅も、欧米列強の軍事介入も防いだ。



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