(徒然道草 その48)異聞  「学生寮修道館」の物語②
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(徒然道草 その48)異聞  「学生寮修道館」の物語②

2022年12月21日(水)4:24 PM

 阿部正弘はなぜ「葵の御紋」という幕府の権威を揺るがせ、御簾の陰に埋もれていた「菊の御紋」に接近したのであろうか。徳川幕府の鎖国政策によってキリスト教の領土侵略から日本は守られてきたが、欧米列強の植民地支配の影が東アジアにも及び始めていた。幕府は長崎を通じて香港の英字新聞から情報を入手して、正確に世界の動きを把握していた。クリミア戦争には幕府は中立姿勢を表明している。阿部正弘は軍事力では列強に立ち向かえないと承知おり、外交努力で如何に国難を乗り切るかに神経を集中していた。これまで通り老中を頂点とする幕閣だけが国事を独占することに限界を感じ、開明的な大名が幕政に関与する道を開いた。

 老中は、江戸幕府に常設された最高職で2万5000石以上の譜代大名から任用され、複数名が月番制で政務を執った。1855年当時は、阿部正弘、牧野忠雄、松平乗全、松平忠固、久世弘周、内藤信親の6人である。大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などを指揮監督し、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄を統轄した。現在の内閣のように担当業務ごとの大臣ではなく、月番制で全業務を交代で担当し、江戸城本丸御殿の御用部屋を執務室とした。重大な事柄については月番でなくても登城して合議した。また、重要なことを協議するときは盗聴(床下や天井裏、外からの盗み聞き)を恐れ、文書として証拠が残らないように囲炉裏の灰の上に火箸で筆談をして。朝10時ころから午後2時ころまで、月に10回ほど登城出勤した。月番でない時や登城前の時間には、それぞれの藩邸で諸藩の御大名、旗本や江戸の商人、町民から陳情や相談事を受け付けた。老中の役料は無かった(つまり無給であった)から、付け届けを受け取ることは許されていた。田沼意次時代に賄賂がはびこったが、そのことが禁じられていた訳ではなく、付け届けはむしろ中小大名に過ぎない老中の諸経費を賄うための当然の行為であった。

 江戸城に登城するには厳しい決まりがあり、御三家の藩主といえども決して、いつでも勝手にということは許されなかった。井伊直弼が徳川斉昭や松平春嶽らを処分した直接の理由は、天皇の勅許を得ずして条約調印を行ったことに抗議するためと称して、「登城予定日でもないのに勝手に江戸城に押しかけた」ことを罰するものであった。

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 阿部正弘派を形成した筆頭は徳川斉昭である。水戸藩は徳川御三家の中で唯一参勤交代を行わず藩主は江戸常府で幕府の護衛を任務とした(そのために副将軍と呼ばれた)。1829年に家督を継ぎ9代目水戸藩主となった徳川斉昭は、2代目藩主の光圀が始めた大日本史の編集事業から生まれた尊皇思想に凝り固まった徳川一門では異色の大名であった。水戸家(35万石)は、尾張家(61万石)や紀伊家(55万石)よりは格下とみられ、後継将軍は輩出できないと思われていた。慶喜の母の登美宮は親王の娘であり112代霊元天皇の孫の子(曽孫)に当たる。斉昭は7男の慶喜を「江戸の華美な風俗に馴染まぬように」生まれすぐ国元の水戸に移し、そこで9年間育てた。英邁な息子を養子に出さず手元に置こうと考えていたが、12代将軍家慶の意向で1847年9月1日に慶喜は御三卿の一橋家を9歳で相続することになった。家慶は男子14人をもうけたが、無事に育ったのは病弱な4男家定だけであった。万一に備えて、家慶は一橋家の当主に慶喜を据えたわけであるが、老中首座の阿部正弘は「たとえ病弱とはいえ将軍の長子が後継者になるべき」とし、黒船来航の19日後の1853年7月27日に家慶が病死すると、同年11月23日に徳川家定が13代将軍となった。

御三卿は徳川宗家の後継難に備えて創設された賄料領知10万石の藩で、藩主は江戸常在で参勤交代をせず、屋敷や家臣団もすべて幕府から与えられた。家定は島津斉彬の養女篤姫を正室に迎えるが、将軍在位わずか5年に満たず1858年8月14日に病死する。後継者争いは大老井伊直弼の裁断で、紀州藩主の徳川家茂(11代将軍の家斉の孫)が1858年10月25日に14代将軍に就任する。水戸藩主斉昭の慶喜を将軍にする夢は、またも散ってしまった。

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 外様大名でありながら、阿部正弘派の中枢を担ったのは薩摩藩主の島津斉彬である。正室は一橋家3代目当主の徳川家敦の娘の恒姫であり、将軍徳川家斉の孫娘に当たる。

 薩摩藩(72万石)は500万両の借金を抱え破綻状態であったが、1809年6月に10代目藩主に就いた島津斉興は、藩主の茶坊主であった調所(ずしょ)広郷を抜擢して財政立て直しに成功した。幕末の一両は現在の貨幣価値で4万円から6万円であったから、薩摩の借金は2000億円から3000億円である。調所は、商人を脅して借金を無利子で250年の分割払いにし、琉球や清国との密貿易、奄美の農民に砂糖を増産させて搾り取る、贋金づくりといった荒療治のために猛烈に働いた。

 島津斉興は、西洋かぶれで放漫財政の恐れのある島津斉彬に藩主の座を譲ろうとせず、藩内世論は異母弟の島津久光擁立派と二分された。江戸藩邸でいわゆる人質として育った島津斉彬は、元服も済ませ、大藩の次期藩主として将軍にもお目通りを許され、阿部正弘や徳川斉昭とも国事を巡って意見交換するなど、その英明ぶりが注目されていた。しかし父親の島津斉興は、知力では到底、兄に及ばないと知りつつも、鹿児島で生まれ育った弟の島津久光を可愛がった。

 焦った斉彬は、島津藩の密貿易を老中首座の阿部正弘に密告し、クーデターを起こした。

 調所広郷は、阿部正弘から直接事情聴取を受け、藩主に類が及ぶのを防ぐために罪を被って1849年1月13日に江戸で自殺した。72歳であった。薩摩藩は火山灰土壌で水田が少なく藩の収入は名目石高の半分しかなかった。しかし調所広郷のお陰で、薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来るほどまでに財政が回復した。島津斉興は、久光を藩主に立てようと考えて、斉彬派を粛清したが、阿部正弘が将軍に島津斉興へ隠居を命ずるよう要請した。そこで徳川家慶は斉興に茶器を下した。これは、暗に隠居を促したもので「隠居して茶などたしなむがよい」という意向である。

 ついに島津斉興は将軍家慶の「引退勧告」を受け入れて、1851年3月4日に藩主の座を嗣子の斉彬に譲った。42歳で島津藩の実権を握った斉彬は、鹿児島にお国入りすると、財政悪化を厭わず西洋技術を果敢に導入し、長崎警護のため軍備強化を進めていた従弟の鍋島直正から技術支援を受けて、兵力の近代化や日本初の蒸気船「雲行丸」建造を行った。江戸では、阿部正弘に重用され、公武合体、武備開国を訴え、1857年1月13日には養女の篤姫を13代将軍の正室に送り込んだ(形式上は五摂家筆頭近衛家の娘)。この時に江戸で手足となって働いたのが西郷隆盛である。

 阿部正弘亡き後、大老井伊直弼の強権政治に反発する島津斉彬は藩兵5000人(?) を率いて抗議のため出兵する動きをみせた。しかし鹿児島で準備のために練兵を観覧中に発病、1858年8月24日

に急死した。くしくも水戸の藤田東湖と同じ49歳であった。毒殺説もあった。

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 阿部正弘派の3番手は親藩大名の越前福井藩(32万石)の松平春嶽である。父親は田安徳川家3代目当主の徳川斉匡(11代将軍家斉の異母弟)で、1838年に福井藩主の松平斉善が跡継ぎの無いまま突然死去したため、斉善の兄の12代将軍徳川家慶らの計らいで養子縁組の形を整え、10月20日に

越前松平家の家督を引き継いだ。わずか11歳であった。福井藩主となると、全藩士の俸禄3年間半減とするなど藩の財政改革に努めた。正室には熊本藩主細川斉護の三女勇姫を迎えた。阿部正弘の正妻と継妻は福井藩主の娘と養女ということもあってか、松平春嶽は江戸では阿部正弘に重用され、一橋慶喜を将軍にして自らも幕閣の中心に座り慶喜を支える野心を抱いた。安政の大獄から赦免されると新設された幕府の政事総裁職に就き幕政改革を進め、慶喜が将軍後見職や15代将軍に就くと行動を共にし、大政奉還後も慶喜を庇い続けた。

 そして阿部正弘派の4番手は、外様大名でありながらも、京の公家と深い姻戚関係を持つ土佐藩(20万石)の山内容堂である。土佐藩は13代目藩主の聡明で知られる豊熈(正妻は島津斉彬の妹)が嗣子の無いまま33歳で死去した。実弟の5男山内豊惇が跡を継ぐが在職わずか10日余りで急死した。11男の豊範はまだ3歳と幼少であったため擁立は見送られ、お家断絶の危機に瀕した。そこで病死した14代目藩主豊惇は隠居したと偽り、分家の豊信(後の山内容堂)が指名され、1849年1月26日に幕府から15代目藩主と認められた。21歳であった。この時の藩内のゴタゴタを取り繕い、老中首座の阿部正弘に働きかけて土佐藩を救ったのが、島津斉彬や宇和島藩主の伊達宗城である。

 山内容堂の正妻は内大臣三条実万(さねつむ)の養女正姫であり、また実万の正妻は土佐10代目藩主山内豊策の娘、実万の3男は幕末の急進派公家の三条実美(さねとみ:正一位大勲位公爵)である。

山内容堂は藩主になったものの、12代目藩主の山内豊資がまだ健在であったため、藩の実権を握ることが出来ず、酒に溺れ、詩作の日々を送った。ところが時代の大きな変化が起こった。幕府はペリーから受けとった国書の写しを全国の諸大名に配布し、意見を求めた。山内容堂は高知城に藩の重臣を集め意見書の作成を命じた。この時に幕府に提出する意見書を起草したのが吉田東洋である。その後、山内容堂は東洋を登用して土佐藩の改革を推し進めた。

 安政の大獄で山内容堂は江戸で隠居させられ、16代目藩主には1859年2月26日、かつての藩主候補であった山内豊範(正室は毛利敬親の養女俊姫)が就いた。この容堂の隠居中に国元の土佐ではクーデターが起こった。公武合体派の吉田東洋は1862年5月6日、武市瑞山の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。47歳であった。武市瑞山は門閥家老らと結び土佐藩政を掌握した。

 阿部正弘派の5番手は外様大名の宇和島藩(10万石)の蘭学好き藩主伊達宗城である。高野長英や大村益次郎を招いて西洋技術の導入を図り、島津斉彬に次ぎ日本2番目の蒸気船を造らせた。20歳のころ徳川斉昭の長女賢姫と婚約したが賢姫が17歳で早世し、正室に迎えることはなかった。

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 ちょうどこのころ浅野藩では10代目藩主に慶熾(よしてる)が就いた。幼少のころから聡明で知られる浅野慶熾は藩主の後継者として江戸藩邸で育ち、阿部正弘派の島津斉彬、松平春嶽らと交流し、将来を嘱望されていた。島津斉彬は鹿児島で病に倒れた時、「幕政改革の後事を託す」という遺言を慶熾宛てに残した。しかしその意志を引く継ぐことなく慶熾は、浅野藩主になってわずか半年後の1858年10月16日に江戸で死去した。まだ21歳であった。

 浅野藩は分家の浅野長訓が46歳で宗家の家督を継ぎ11代目藩主になった。藩の財政難を克服するため野村帯刀、辻将曹を家老(執政)として取り立て藩政改革に着手した。

 長州藩は、1600年の関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ、120万石から長門周防2カ国、36万石に領土を減らされ、城も日本海側の僻地の萩に封じ込まれた。この時以来、いつかは徳川に報復するという怨念を抱き続けていた。12代目藩主の急死により、その娘都美姫(数え5歳、実際の婚儀は10年後)と結婚することになり、18歳であった毛利敬親は1837年4月27日に本家の家督を継ぎ、13代目藩主となった。当時の長州藩の財政は困窮しており、村田清風を登用して藩政改革に取り組んだ。米塩蝋の「3白」を増産させ、下関に金融兼倉庫業の海越荷方を設置した。諸藩のコメや産物は商都大阪で取引され、北前船を使って運ばれた。その航路の拠点として下関は栄えていたため、藩直営の海運業は莫大な利益をもたらした。一方で長州藩は積極的な開墾や殖産興業を進め、幕末の長州藩は200万石に相当(?)するほど豊かな雄藩に飛躍することに成功した。功労者の村田清風は1855年に死去、くしくも調所広郷と同じ72歳であった。

 長州藩は豊かな財力を使って軍備増強を進め、大砲を鋳造し砲台を造り、下関で攘夷を敢行するが、欧米軍の艦砲射撃に完敗した。この実戦を教訓に、新鋭銃を大量に購入し、大村益次郎の指揮の下で軍事編成に取り組み洋式練兵を猛烈に進めた。そして幕府の長州討伐軍を破った。



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