(徒然道草 その47)異聞「学生寮修道館」の物語①
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(徒然道草 その47)異聞「学生寮修道館」の物語①

2022年11月22日(火)1:16 PM

 【徒然道草】は目魁影老(めさきかげろう)の思いを綴ったものです。必ずしも科学的な論証によった真実を記載したものかどうかは、自信がありません。写真、地図、概略図といったものを一切載せていません。 より知識を深めるためには、読者がそれぞれ検索や探求されることをお勧めいたします。

 

戸塚らばお氏は古くからの友人である。三次市に暮らし、「晴れれば田畑を耕し」「降れば歴史小説づくり」に励んでいる。その彼から、広島県人学生寮の修道館に暮らしたころを何か思い出してほしいと頼まれたが、後期高齢老人は50年以上も前のことは、すっかり記憶から消え去っている。

そもそも「芸備協会とは何であったか」を教わったことも、深く考えたことも無かった。申し訳ないので、ウエブで少し勉強をしてみた。忘れる前に「修道館の語り部」を演じてみる。

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 『芸備協会とは浅野藩の家業である』と私は思う。

 今から400年前に広島藩は福島正則から浅野長晟(ながあきら)に領主が替わった。関ケ原の戦いで軍功を挙げた福島正則は、毛利藩の領地のうち安芸の国と備後の国を合わせて49万8000石の領地を与えられた。その後、2代将軍徳川秀忠の怒りを買い改易となった。その跡に紀伊の国から移封となった浅野長晟は備後の国の半分を削られ42万6000石を与えられた。従って浅野藩は正確には芸備藩であるが、お城のあった場所から、もっぱら芸州あるいは広島藩と呼ばれる。

 この初代藩主の浅野長晟は学問好きで、儒学者の藤原惺窩と交流を深め、広島藩の学問の基礎をつくった。その後、300年前の1725年(享保10年)に浅野藩中興の名君とされる5代目藩主の浅野吉長によって初めて藩校である講学所がつくられた。武士の領国支配が武断政治から文治政治へと変わる時代の先駆けで、「道を修めた有能な人材」の育成を目指した。

1734年に講学所は講学館に名称を変更したが、1743年に経費節減のために休業となった。

 1782年に7代目藩主の浅野重晟が城内三の丸に学問所を興し、藩士のみならず陪臣や庶民までも学ばせた。この藩校は90年続き、12代藩主の浅野長勲が1870年(明治3年)に城内八丁馬場に移し「修道館」として開設された。

 「天の命ずる これを性といい 性に率う これを道という」に続く 「道を修むる これを教えという」のことばから名づけられた。しかし翌1871年、明治政府は廃藩置県を断行した。全国の藩が完全に無くなり、藩校も廃止された。

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阿部正弘は1836年(天保7年)12月25日、病弱な兄の隠居により17歳で福山藩10万石の家督を継いだ。翌年、殿様として初めてお国入りするが、江戸屋敷生まれの江戸暮らしの生涯を送り、福山帰藩はこの一度だけであった。1838年9月1日に12代将軍徳川家慶の奏者番に任じられた。これは有望な若い譜代大名が最初に就く幕府の役職である。その後は幕府の要職を駆け上り、1843年9月に老中に、1845年2月22日には26歳で老中首座になった。老中や幕閣は参勤交代を免除された。(大老は臨時に置かれた幕府最高職で、 大老が決定したことは 将軍でさえも覆すことができない重職。大老になれるのは、譜代大名の中でも土井・酒井・堀田・井伊の四家に限られていた)

 アヘン戦争(1840年4月19日~1842年8月29日)で清国はイギリスに敗れ、香港を植民地として奪われた。虎視眈々と領土拡大を狙うロシアは、オスマントルコの衰退に乗じて、黒海方面への南下を進め、クリミア戦争(1853年10月16日~1856年3月30日)で不凍港獲得の侵略を仕掛けた。これに反発するイギリスとフランスはトルコと軍事同盟を結び、2年半に及ぶ大消耗戦の果てに何とかロシアを食い止めた。この戦争は東アジアにも余波が及び、イギリスとロシアは牽制し合った。

 アメリカは、メキシコとの戦争に勝ち、1848年にカリフォルニア手に入れた。太平洋国家になる宿願を果たすと、中国との交易を狙って艦船をたびたび出没させた。その足掛かりとなる日本にも食料や燃料補給をするために開港を迫った。しかし、国内で南北戦争(1861年4月12日~1865年5月9日)が発生し、一時その海外進出の勢いは削がれた。

 徳川幕府は1825年に「異国船打ち払い令」を定め、欧州やロシアの開国要求を撥ね付けていた。

阿部正弘は老中首座に就くと直ちに1845年に海岸防禦御用掛(海防掛)を設けて川路聖謨(としあきら=長崎でロシア使節プチャーチンとの条約交渉の全権代表) や若い勝海舟ら有能な人材を登用し外交・国防問題に当たらせるとともに、海外からの脅威に対抗するために、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募った。水戸藩の徳川斉昭に海防参与として幕政に関与することも要請した。

 1853年7月3日に黒船四隻で浦賀にやって来たペリーは米大統領親書を持参して開国(長崎以外の開港と交易開始)を迫った。幕府は将軍家慶の病気を理由に一年間の引き延ばしを認めさせたが、12代将軍家慶は7月27日に病死した(60歳)。この幕府の混乱に乗じペリー艦隊は約束よりも半年早く日本に再び現れた。1854年3月31日に、阿部正弘は砲艦外交に屈し、日米和親条約を結んだ。

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 約200年間続いた鎖国政策の転換は恐怖と混乱を招いた。江戸では「太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」という狂歌がはやった(実際は明治10年作?)。上喜撰とは宇治の高級茶のことであり、アメリカ軍艦四隻との掛詞である。ことに朝廷は孝明天皇が頑なな外国嫌いであり、「私の代よりかような儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや」と、鎖国の堅持と異国の追い払いを求めた。阿部正弘は、1885年に強硬な攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中2人を罷免したが、すると開国派の井伊直弼(幕政顧問の立場にある親藩・譜代の中でも特に格式の高い大名の詰める江戸城溜間の代表)らの怒りを買い、両派の宥和を図ることを余儀なくされた。開国派の堀田正睦(佐倉11万石藩主)を老中に再任して首座を譲り、阿部正弘は次座に退いた。堀田再任に徳川斉昭は反対したが、島津斉彬は静観した。阿部正弘は実権を握り続けたが、外交や内政の激務に体調を崩し1857年8月6日に老中のまま病死した。37歳であった。

*この時徳川斉昭57歳・島津斉彬48歳・井伊直弼41歳・島津久光39歳・伊達宗城38歳・毛利敬親38歳・山内容堂29歳・松平春嶽28歳・孝明天皇26歳・徳川慶喜19歳・浅野長勲14歳・西郷隆盛29歳

 アメリカは初代日本総領事にハリスを送り込んできた。強硬に日米修好通商条約(関税など交易条件を定めるもの)締結を迫られた堀田正睦は、1858年春に上洛した。老中自らが朝廷の説得にあたれば了解を得られるものと甘く考えていたが、朝廷内も開国か鎖国かを巡って意見対立が激しく、孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。

阿部正弘の急死から8カ月後1858年4月21日に、13代将軍の家定は譜代大名筆頭の彦根藩主(23万石)の井伊直弼を大老に就任させた。それまで国事は幕府が執り行うもので、外交問題といえども朝廷の了解や介入はあり得なかった。そこで井伊直弼は7月29日に日米修好通商条約に無勅許で調印し、堀田正睦を老中から解任した。しかし阿部正弘派は天皇を無視するこの行為に抗議するため江戸城に押しかけた。これに怒った井伊直弼は、徳川斉昭、親藩筆頭(32万石)の越前藩主の松平春嶽や島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城、一橋慶喜らに隠居、謹慎、江戸城登城禁止を命じた。また、安政の大獄を発動し、公家や尊皇攘夷派の志士ら100人以上を逮捕し、吉田松陰、橋本佐内ら10人余りを死罪、獄死に追い込んだ。海防掛は廃止して外国奉行を設け、将軍後継問題では一橋慶喜を退け、紀伊藩主徳川家茂を将軍にすると決めた。将軍在位わずか5年で病弱の家定が死去(34歳)すると、家茂は12歳で1858年10月25日に14代将軍になった。

尊皇思想の水戸学を率いた藤田東湖は、その3年前の1855年10月2日に起きた安政の大地震により江戸で死去した。49歳であった。遺志を継いだ水戸藩士は脱藩して浪士となり、1860年(安政7年)3月24日の朝、江戸城に駕籠で登城中の大老の行列を桜田門外で襲った。井伊直弼は44歳で暗殺された。幕府の権威が大きく揺らぎ始めるきっかけとなった。

 徳川斉昭は半年後の1860年9月29日、江戸ではなくて居のまま60歳で死去した。 



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