(徒然道草52)異聞「学生寮 修道館の物語⑥」
徒然道草52 異聞「学生寮修道館」の物語⑥
さて、長州征伐である。朝廷は1864年7月23日(西暦8月24日)、幕府に対して長州追討の勅命を発した。これを受けて8月3日に将軍家茂は、長州討伐令を出した。幕府は長州藩主毛利敬親と世子定広に京都で禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、固辞する尾張藩の前々藩主である徳川慶勝を総督に、副総督に越前藩主松平茂昭を任命し、尾張藩と越前藩および西国諸藩から征長軍を編成、35藩、総勢15万人の兵動員を決めた。8月13日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)から、萩城のある萩ではなく藩主父子のいる山口へ向かうとされ、10月22日に大坂城で征長軍は軍議を開き、11月11日までに各自は攻め口に着陣して、1週間後の18日に攻撃を開始すると決定した。その当時、長州藩は海からの異国船の砲撃を警戒して、沿岸の萩から山口に藩政務の拠点を移していた。幕府は広島の国泰寺には総督府、福岡の小倉城には副総督府を置くことになった。総督は長州藩への降伏条件の決定、征長軍の解兵時期について権限を持ち、長州の藩邸を没収し、毛利藩主父子に謹慎を命じた。しかし、どのような条件で長州藩に謝罪をさせるかについては決まらなかった。その一方で、徳川慶勝は西郷隆盛の「長州藩降伏の腹案」を受け入れ、征長軍全権を委任された参謀格として交渉に当たることを認めた。西郷のいわば「独走」によって、1864年11月18日(西暦12月16日)、長州藩はその調停案を受け入れた。
長州藩は、福原元僴、国司親相、益田親施の3家老を切腹させ、4参謀(宍戸左馬之助、佐久間佐兵衛、中村九郎、竹内正兵衛)を斬首した。「そうせい候」は忠臣の命を差し出すことで、幕府軍と戦わず、恭順の意を示した。藩主は萩に謹慎し、官位は剝奪され、将軍から賜った偏諱も「慶親」から「敬親」に改めた。長州に追放されていた7卿のうち5卿(一人は病死、一人は天領の生野で挙兵を企てた「生野の変」の総帥に担がれたが敗れ逃亡中)は福岡藩太宰府に移されることになった。そして、長州の藩政は、保守派の椋梨藤太(禄高わずか49石)が握り、政敵の周布政之助を自害へと追い込み(42歳)、尊皇攘夷派(正義派)を大量に処刑し、奇兵隊をはじめ諸隊へ解散令を出す。
西郷隆盛が行った一連の工作を受け入れ、長州藩は取り潰しを免れた。西郷は直前に勝海舟と会談して「徳川幕府はもはや限界」という実態を学んでいた。そこで長州を救う事で恩を売って、後の薩摩藩と長州藩の同盟への布石を打った。若手志士の処刑も行わなかった。
長州藩では、徳川幕府に謝罪恭順する保守派(俗論派)が、3家老や4参謀を処刑したことに怒った高杉晋作が逃亡先の福岡から下関に戻り、俗論派からの藩政奪還を叫んで奇兵隊や諸隊の説得に奔走した。しかし当初は賛同する者は少なく、やっと1864年12月15日(西暦65年1月12日)下関市防府の功山寺で挙兵したが、結集したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであった。椋梨らが幕府側の意向を受け、次々と正義派の藩士の処刑を行ったため藩内の反発も高まり、領民はおおむね高杉晋作らを支持しており、諸隊の宿泊する家屋や人夫、食料などの提供を積極的に行った。藩政府は幕府への恭順姿勢を示すため、藩兵2000人の鎮静部隊を編成し諸隊解散に乗り出した。ところが、山県有朋の率いる奇兵隊や新たな諸隊も続々と挙兵に加わり総兵力は750人に膨れ上がり、長州藩は内戦状態に陥った。藩政府軍の優勢は続かず次第に後退、高杉晋作らが萩に進軍すると1865年1月30日に、毛利敬親は俗論派の重臣を罷免し藩政改革を行う用意があると正義派に伝え、クーデターは成功した。
征長軍総督府は、家老らの首実検や毛利親子の隠居などを見届けると1864年12月27日解兵令を発した。長州藩の内乱には介入しなかった。しかし江戸の幕閣は翌年1月5日、徳川慶勝へ長州藩主父子及び5卿を江戸まで拘引せよとの命令書を与えた。命令書を受け取った慶勝は「征長について将軍から全権を委任され、降伏条件と解兵は総督府を通じて幕府へ報告した。幕閣の命令の実行は解兵した現在では不可能である」と断った。
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幕府の軍役命により出兵した諸藩は自己負担を強いられただけで恩賞は無かった。そこで幕府は長州に10万石の返納を命じ、諸藩への恩賞に充てようとした(?)が、長州藩はこれを無視した。幕閣からは徳川慶勝の処置は生ぬるいという批判が高まった。そこで、広島の総督府を通じて、長州藩主親子や5卿の身柄を江戸に引き渡すように、執拗に迫った。双方の仲立ちのため、広島藩の浅野長勲や家老の辻将曹は奔走したが、長州藩の毛利敬親は「病気と称して」一向にこの幕府の挑発に乗らなかった。そこで幕府は天皇の勅許を再び受けて、第二次長州討伐に踏み切った。
第二次征長軍は(総督は紀州14代藩主の徳川茂承、将軍に転じた前藩主家茂より2歳年上)は広島に老中の小笠原長行(唐津藩6万石、藩主ではなく嗣子のまま老中となった)を派遣した。浅野藩家老の辻将曹は征長不可を説き、毛内藩主敬親への寛大な処分を求め、これが容れられなかったため、討伐軍の先鋒を拒否した。すると小笠原長行は広島藩家老野村帯刀と辻将曹の謹慎を命じた。これに怒った少壮藩士55名が「小笠原老中を暗殺する」と決起の動きを見せた。さすがに藩主浅野長訓は困惑し、小笠原長行に広島退出を求めた。小笠原長行はやむなく軍艦で小倉城に移った。
1866年6月7日(西暦7月18日)、幕府軍艦の大島口の発砲で第二次征長の戦闘は始まった。
幕府軍は①広島口5万に②山陰口3万人③小倉口2万人④大島口5000人(⑤萩口は薩摩藩の担当であったが出兵拒否)の兵で長州に攻めかかった。迎え撃つ長州兵は①から③に1000人ずつ布陣、④に500人であった。長州藩は最新鋭の銃を大量に購入し、大村益次郎が軍制改革と銃操作の特訓で洋式軍隊を育てており、「長州人は皆殺しにされても戦う」(大村益次郎?)と言うほど士気は高かった。幕府側は、総督の指揮する広島口は浅野藩の出兵拒否もあり一進一退の膠着状態に陥り、山陰口は津和野藩が中立姿勢をとったため大村隊は一挙に進撃、浜田藩主の松平武聰(徳川慶喜の実弟6万5000石)は城を捨て飛び地の領国である岡山の美作まで逃走し、幕府側は石見銀山を奪われた。大島口は高杉晋作の夜襲を受けて幕府艦隊は大混乱なり、一度は征服した大島を失った。
九州は外様の有力大名の跋扈する地である。有能な人材として老中に抜擢されたとはいえ唐津藩(表高6万石だが実質は20万石あった)の小笠原長行には、小倉口の戦闘で総督として指揮を執るには荷が重すぎた。小倉藩(15万石)小笠原氏は、西国譜代大名の筆頭として、九州の玄関口を抑える「九州探題」として外様大名の監視する立場であったため、外様大名の協力を取り付けることが出来なかった。薩摩藩は第二次長征には出兵を拒んだ。黒田藩(47万石)は藩内が勤皇派と佐幕派と割れており、熊本細川藩(54万石)は小笠原の指揮に不満を募らせて戦線を離脱した。鍋島藩(35万石)も中立姿勢を取り出兵しなかった(?)。小倉藩は善戦したが高杉晋作や山県有朋との戦いに敗れ、小倉城は焼け落ち、領地も一部奪われたまま明治を迎えることとなった。
一橋慶喜は徳川幕府の威信をかけて、自らが兵を率いて第三次長州征伐戦争をやる決意を示したが、小倉城の陥落を知り、断念した。この戦いは幕府が敗北を認めたわけでも、長州が勝利宣言したわけでもない中途半端な状態のまま、14代将軍徳川家茂が1966年7月20日(西暦8月29日)大阪城で、20歳で病死したため、9月2日(同10月10日)に講和に至った。
ネットで色々検索しても、この時の長州藩が3500人で10万5000人の幕府軍を破ったというのは納得がいかない。長州藩がいかに優れていたかを吹聴するために、伊藤博文たちが明治になってつくり上げた「薩長歴史観」の典型ではないかと思う。長州藩は人口50万人、検地結果は98万石であったらしい。人口の10%が武士とすると5万人、半分が男子で2万5000人、老人子供を除く戦闘員が半分とすると1万2500人となる。1万石で兵200人とすると100万石で2万人である。新鋭銃7300挺購入の記録もある。それまでの相次ぐ戦争で多くの兵を失っていたとはいえ。私は、1万人から2万人が戦ったと推計している。