(目魁影老の徒然道草 その10)ピラミッドは人類初の巨大日時計②
エジプトはナイル川の周辺だけに水の恩恵が及ぶ。オアシス集落もあるが、ほとんどは草木の一本もない砂漠である。その砂漠の中の道を車で走ると、いたるところに円錐形の山が立っているのに出くわす。地殻が隆起してできた大地が、雨ではなく、風によって浸食されて円錐形になった。
「あ! この山の姿こそピラミッドの原型だ」と私は、思わず納得した。
人類は農耕を始める前には、野生の栗やドングリといった木の実や麦などの草の実を食べていた。そして人類が出現する前から、水の氾濫によって豊かな土壌に恵まれるナイル川周域は天然の穀倉地帯であった。太陽は、東から出て西に沈み、季節により日の出と日没の時間は早くなりいつしか遅くなる。この天体の周期的歩みは、絶えることなく続いていく。
ナイル河畔に住むようになった人類は、定着し、自然の恵みをただ頂くだけではなく、土地を耕して食物を育てることを覚えた。農耕文明の始まりである。そして、天体の周期が、地表の季節の変化をもたらし、雨を降らせ、ナイル川の氾濫を引き起こし、肥沃な土壌を運んでくることに気付いた。では、この天体の周期は、いつが起点でいつが終点で、なぜ繰り返すのか。砂漠に影を落とす円錐状の山を見て、人類は、周期的に変わる季節を読み解く知恵を磨いていった。暦という感覚の芽ばえである。
太陽の周期が作物の成長に大きく関わっている。いつ農耕の準備を始め、いつ種をまき、自然任せではなく、どのように農作物を育てて、いつ収穫すれば豊作となるのか。その知恵こそ新たな文明の始まりである。
ナイル川が育むエジプト文明にとって、太陽は神である。いつが冬至でいつが夏至で、新しい年はいつ始まり、豊穣をもたらす川の氾濫は今年もちゃんとやって来るのか。その周期はすべて太陽が源である。この太陽の正確な動きを知るために、エジプトの王たちはピラミッドを造った。ピラミッドこそ、地表に映る影ではなく、その内部に差し込む太陽の光によって、正確な冬至と夏至、春分と秋分を知ることが出来る「日時計」であった。
ピラミッドは、季節の周期を教えてくれるだけではない。砂漠の中の円錐の砂山とは違って、全体が白く磨かれた石で覆われており、四角錘の表面に反射する黄金の輝きは移動して、日の出から日没までの「時」を告げる。
偉大なる太陽神ホルスの化身であるエジプト王こそが、太陽の恵みを人々にもたらす力を持っている。その証として、太陽神の宿る巨大ピラミッドを、ナイルの河畔、王宮そばに建てた。エジプト王は「天空と暦の支配者」を演じた。
5,000年前の古代エジプト王たちは、それぞれが自分のピラミッドを造った。その数は歴代の王の数よりもはるかに多い。2008年11月にサッカラで発見されたシェシェティ女王のピラミッドはエジプト国内で118基目である。しかし太陽神ホルスの信仰は、1,000年もの時を経ると新しい神々の誕生によって次第に姿を変え、エジプトの文明は神殿の建設へと向かい、「暦の支配者」の証であるピラミッドは造られなくなっていった。そのため、エジプトのピラミッドが何のために、どのようにして造られたのかは忘れられ、謎となってしまった。
「日時計」説は全くの独自案ではないが、この徒然道草に記載した文章は、目魁影老の勝手な思い込みであり、砂漠の中の円錐形の山を見て古代エジプト人が、ピラミッドの四角錐の石積みを着想したというのも、ただの推論である。
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