(目魁影老の徒然道草 その11)6,000年前にエジプト文明より古い文明があった
学校で学んだ世界史は、メソポタミア、エジプト、インダス、黄河に起こった4大農耕文明から始まり、エーゲ海文明をへてギリシャ都市国家、ローマ帝国へと続いていったことになっている。
しかし、目魁影老は仰天した。ルーマニアとブルガリアを旅行した時のことである。古代エジプトに5,000年前に初代王朝が誕生するよりもはるか昔、今から6,000年前の古墳がブルガリアの黒海沿岸の港町で発掘され、腕輪など多くの黄金製品が発見されたというのである。しかも、この国にはまだまだ多くの未調査の古墳が存在しているという。まさか???
ウキペディアで調べてみたら、このドナウ川南部のブルガリアからギリシャ北部の地には、5,000年前からトラキア民族と呼ばれ人々が住み始めた。トラキア人は文字を持たなかったため、自らの記録を残していないが、古代ギリシャの歴史家ヘロトドスやホメロスの詩に「死を恐れぬ勇猛な戦士」として登場する。トロイの町をつくったのもトラキア人(?)で、3,300年前ころに起こったトロイ戦争ではトロイ軍を助けギリシャと戦い、その後もギリシャやペルシャと覇権争いを続けた。そしてトラキアを統一した強大な王国が生まれ、2,500年前から2,200年前ころにかけて最盛期を迎えた。このトラキア人の古墳(その一つを旅行中に見物)から、黄金のマスク、首飾り、耳飾りといった金製品、酒杯など銀製品が数多く発掘された。ところが、トラキア民族よりもさらに遡ること1,000年の古い黄金文明があったというのである。その文明をつくったのは同じトラキア人の祖先であったのか、違う先住民族であったのか、まだ不明である。このブルガリアの古代史が、発掘によってさらに明らかになれば、世界史が変わるのではないかという予感がする。
このトラキアは、西から攻め込んできたマケドニア王に、紀元前357年に征服されてしまう。その後一時盛り返したものの、ローマ帝国、ビザンチン帝国の属州にされてしまい、1,300年前には、アジア系遊牧民族ブルガール人の侵略により、トラキアはすっかり消滅してしまい、謎の文明となった。
トラキアを征服したマケドニア王の息子がアレキサンダー大王である。
20歳で王位を継いだアレキサンダーは、全ギリシャを征服すると、小アジア(現在のトルコ)から、さらに東のペルシャ、南のエジプトを領土に収め(エジプトではファラオになる)、はるかインドまで運隊を進め、一大帝国を築いた。しかし、32歳で急逝し、彼の意志をついだ将軍たちによって帝国は3つに分裂した。こうしてエジプトには、ギリシャ人のプレトマイオス朝が創設された。紀元前30年まで275年続いたこの王朝の最後の女王がクレオパトラである。
その後もエジプトは、ローマ、アラブ、トルコといった異民族に支配され続けた。1922年にイギリスの保護国から独立し、古代エジプト以来の民族国家を回復するまで、異民族の食糧庫として収奪される過酷な運命であった。
江戸時代の大名は米の生産高によって100万石、10万石といった具合に領国の大きさを表すが、農民は自分たちが作った米の半分を武士に税として取られた。つまり100万石大名は50万石の税収があった。この農民支配を「5公5民」という。エジプトの農民もまた「農作物の半分を、異民族の王朝や支配者に、税として搾取された」(エジプト旅行中の現地ガイドの話)のである。
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