(徒然道草54)異聞「学生寮修道館の物語⑧」
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(徒然道草54)異聞「学生寮修道館の物語⑧」

2023年08月21日(月)5:58 PM

徒然道草54  異聞「学生寮修道館」の物語⑧

1867年1月9日(西暦2月13日)に践祚した新天皇は14歳であった。元服、122代天皇即位の礼、大嘗祭という朝廷儀式の流れの中で、岩倉具視は暗躍を続けたが、依然として、国事は幕府が取り組まなければならない課題であり、将軍慶喜は2月6日(西暦3月11日)、7日、20日とフランス公使のロッシュと会い、さらに3月25日(同4月29日)には各国公使を謁見し「兵庫開港」を確約した。それに対して、大久保利通は5月4日(同6月6日)に四侯会議(島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)の設定に漕ぎ付け、京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次ぎ開催した。四侯は布告期限が迫る兵庫開港問題 や、保留されたままの長州処分を将軍慶喜と協議することを確認したが、慶喜は四侯会議を制し5月24日に兵庫開港の勅許を得る。長州処分は不明確のままであった。

ついに島津久光は、徳川慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した。

 一方5月18日に京都東山の料亭で土佐藩の板垣退助らと広島藩の船越洋之助が武力討幕を密談し、21日に小松帯刀邸で西郷隆盛らと板垣退助、谷干城らが武力討幕の薩土密約を結ぶ。翌22日に板垣退助が山内容堂に薩土密約を事後報告。容堂は驚いたがこれを咎めず、武器調達と軍制改革を指示し、これを受けて板垣退助は土佐に帰国して軍事強化の取り組みを開始する。

5月25日に薩摩藩は、四侯会議の失敗と薩土密約を受けて武力討幕の方針を固める。

広島藩(芸州)は、嗣子浅野長勲が大政奉還策を推進する一方で、辻将曹を使って、1867年9月20日に薩長芸3藩の出兵盟約を結ばせた。京都で薩摩の大久保、西郷、長州の広沢真臣、芸州の辻将曹が結んだもので、大久保が書いた草稿の写しが京都大学に残っている。

   要目

一、    三藩軍兵大坂着船之―左右次第 朝廷向断然之御尽力兼て奉願置候事

一、 不容易御大事之時節ニ付為 朝廷拠国家必死尽力可仕事

一、    三藩決議確定之上ハ如何に之異論被聞食候共御疑惑被下間鋪事

           三藩 連名

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同じ時期、9月18日(西暦10月15日)に長州藩の毛利敬親は「討幕挙兵」の断を下す。10月6日(同11月2日)には大久保利通と品川弥二郎が岩倉と相談し、幕府との戦争に備えて「錦旗」の製作で合意する。そして、岩倉は「討幕の密勅」(偽勅?)に踏み切る。

日付は薩摩藩に下されたものが10月13日付、長州藩に下されたものが同月14日付で、いずれも廷臣である中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。薩摩藩宛は正親町三条が、長州藩宛は中御門が書いたと言われるが、岩倉具視の側近玉松操(錦旗の製作も担当)が起草している。

――詔を下す。

源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。

私(明治天皇)は今や、人民の父母である。この賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、私の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。  (以上訳文)

こうした岩倉の画策する討幕の動きを察知したため(?)、徳川慶喜は反撃に出る。10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理された。このため岩倉たちは討幕の名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日に薩長両藩に対し下された。

将軍徳川慶喜は、二条城に10万石以上の40藩の重臣を集めて、幕府の政権返上を告げた。

これは薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だったと見られている(公議政体論)。将軍になって一年もたたずして10月24日には将軍職の辞任も朝廷に申し入れた。しかし、将軍職の辞任は許されず、「引き続き大政を委ねられる」形が続くことになる。京都御所の警護には会津藩、桑名藩に代わって、広島藩兵876人と薩摩藩兵およそ2000人が「皇軍」として就いた。

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日本をどのような国家につくり変えるか、そのビジョンを示したのは、上田藩士の赤松小三郎である。1864年9月に上田藩の武器の買い付けのため江戸へ出た赤松小三郎は、11月より横浜に駐屯するイギリス軍のアプリン大尉より騎兵術、英語を学び、英国陸軍の兵書の翻訳を行う。またオランダ語の原書から新式ミニエー銃の性能を詳述した「新銃射放論」を翻訳出版した。1866年10月に薩摩藩から英国兵学の教官としてスカウトされ、京都の薩摩藩邸で私塾を開く。村田新八や東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教え、練兵も行い、薩摩藩の兵制は蘭式から英式へと変わる。

そして1867年5月に松平春嶽と島津久光に日本初の「議会制民主主義」の建白書を提出した。

定数30人の上局と、定数130人の下局からなる二院制の「議政局」を設けること。上局は貴族院に相当し、公卿と諸侯と旗本より30人を「入札」(選挙)によって選出。下局は衆議院に相当し、諸藩をいくつか束ねた選挙区から数人ずつ、「人望の帰する人」130人を「入札」により選ぶ。「国事は総てこの両局にて決議」、天皇に建白して「御許容の上」発令する。また議院内閣制度も提言、大閣老(総理大臣)以下6人の大臣を、議会が選出するというものである。

他の項目では、主要都市に大学を設置し全国民への教育機会を提供すること、すべての人民を平等に扱い個性を尊重すること、農民に対する重税を軽減し他の職種にも公平に課税すること、金貨・銀貨を国際的なレートに従って改鋳し、物品の製造にあわせ通貨供給量の拡大を計ること、最新鋭の兵器を備えた必要最小限の兵力で陸軍(2万8000人)と海軍(3000人)を建設すること、西洋から顧問を迎え入れ産業を振興すること、肉食を奨励し日本人の体格を改善すること、家畜も品種改良すること、などが建白された。しかし赤松小三郎は、1867年9月3日(西暦9月30日)、37歳で暗殺された。犯人は中村半次郎(桐野利秋)である。(ウィキペディアなどより)

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岩倉具視は反徳川派公家や大久保利通、西郷隆盛らと秘策を練り、孝明天皇の急死により誕生した、「新天皇という最大の玉」を手中に握った。西郷はまだ若い天皇を「黙って言う事を聞かないと、昔のように戻しますよ」と脅した(?)。新天皇は「自分を守ってくれるのは西郷隆盛しかいない」と思い、明治維新で唯一の大将となった西郷隆盛をずっと頼りにした。

岩倉や薩摩の大久保らは、尾張、越前、土佐、広島藩の抱き込みに成功、慶応3年12月9日(西暦1868年1月3日)に小御所会議の開催に漕ぎ付けて「王政復古」を宣言し、新政府を樹立した。

前日8日の夕方から深夜にかけて開かれた朝議で、長州藩主の毛利敬親と世子の毛利定広の官位復活と入京の許可、三条実美ら5卿の赦免、および岩倉ら謹慎中の公卿の処分解除が決定された。翌9日未明、公家たちが退廷した後、待機していた薩摩、土佐、広島、尾張、福井の5藩の軍が御所9門を固め、新天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。そして、摂政、関白と征夷大将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の3職を置くことが決まった。

新将軍として、孝明天皇とともに新しい国づくりに動き出そうとしながら天皇の死で大きな喪失感に陥った徳川慶喜であったが、新天皇のもとでどのような「公儀政体」をつくるか懸命に努力していた。「自分が中枢に居なければこの国の国事は行えない」という自信があったが、「王政復古」で発足した新政府は、徳川慶喜の排除を目論んだものであった。これに反発する会津藩らの怒りが暴発する恐れが一挙に高まった。この時、二条城には徳川慶喜直属の旗本兵約5000人、会津藩兵約3000人、桑名藩兵約1500人などが結集していた。しかし、慶喜は「天皇との戦争」を何としても回避するため、12月12日(西暦1968年1月12日)に水戸藩兵約200人を守備のため残し、京の二条城を出て、松平容保、松平定敬とともに大阪城へ移った。天皇に忠誠を尽くす覚悟であったのに、御側を離れて大阪に移ったことが最大の失敗であった、と徳川慶喜は悔やむことになる。

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浅野長勲自叙伝によると、9日朝に始まった新設の3職による「王政復古」初の朝議である小御所会議は紛糾し、議論は深夜に及んだ。

「正面の高座には明治天皇、第二の間の右側西向きには親王と公家、左側東向きには諸大名、第三の間には陪臣等が着席」し、大納言中山忠能が開会を宣言すると、まず山口容堂が口火を切り「徳川内府を朝議に参与すべき」と会議に不満を表明、すると公家の宰相大原重徳がすぐに反論した。これに対して山内容堂が英明なる慶喜について長々と持論を述べると、今度は岩倉具視が激しく山内容堂を叱り慶喜排除について語った。次いで松永春嶽が容堂に賛同論を述べ「徳川200年余の太平の世に功ある内府の声を容れるべし」と主張した。広島藩の浅野長勲は岩倉具視を支持し、中山大納言が尾張藩主徳川慶勝に意見を促すと「春嶽容堂に賛成」と答え、次いで薩摩藩主島津茂久に問うと「岩倉の言うようにしなければ王政の基礎を固めること能わず」と述べた。大久保利通と後藤象二郎も激しく藩主を扶けて弁論相対峙した。遂に天皇は「未だ論議尽きず」と中山大納言に休憩を命じた。休憩中に岩倉の要請を受けて浅野長勲は辻将曹を使って後藤象二郎の説得を行った。「恰も内府公が詐謀を懐かるを知り、これを蔽わんと欲する者の如き嫌あり」と説いた。会議が再開されると、容堂は沈黙を守り、それ以上の慶喜擁護をしなかった。

薩摩、土佐、広島、尾張、福井の5藩の兵を率いて御所警護の指揮を執る任にあった西郷は、この会議には出席していない。しかし会議の経緯を聞いた西郷は「短刀一本あれば片づく」と凄んだ。

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王政復古により総裁には有栖川宮(かつての和宮の婚約者)が任じられ、議定には皇族2人と公家3人と5藩の大名が就任した。仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津茂久(薩摩藩)、徳川慶勝(尾張藩)、浅野長勲(芸州藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)である。参与は公家から岩倉具視、大原重徳ら44人、5藩からは薩摩9人(小松帯刀、西郷、大久保、五代ら)、尾張6人、越前6人、広島3人(辻将曹ら)、土佐2人(後藤象二郎ら)が任じられ、復権したばかりの長州は5人(木戸、広沢、井上、伊藤ら)、佐賀、宇和島、熊本、岡山、鳥取の諸藩など56人、参与すべて合わせると100人という膨大な新政府の陣容であった。

しかしこの新政府の姿は岩倉らの企んだ幻影に過ぎなかった。明治に入り、首都が東京に移ると、公家や大名は力を失い、参与の中から有能な人物が実権を握ることになる。

大政奉還で名目上の幕府が消滅したため岩倉、大久保らは徳川慶喜を討つ大義名分を失った。そこで西郷隆盛は挙兵の機会を狙って関東や江戸市中で、猛烈な挑発を企てた。脱藩浪士ら200人(500人?)を「前々将軍家定の正室篤姫の護衛のため」と詐称して募集、商人や町民を襲わせ、火付け、強盗、辻斬りを働かせ、いつも薩摩邸へ逃げ込ませた。諸藩邸は「治外法権」で守られていたが、江戸警護担当で幕末最強と言われる兵の庄内藩(譜代16万石)はこの挑発に耐え切れず、1867年12月26日(西暦1868年1月22日)に薩摩藩を焼き討ちにした。この江戸の喧嘩が上方へも飛び火した。



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