徒然道草55 異聞「学生寮修道館の物語」⑨
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徒然道草55 異聞「学生寮修道館の物語」⑨

2023年10月26日(木)12:48 PM

徒然道草55  異聞「学生寮修道館」の物語⑨

徳川慶喜をどう扱うかは、将軍職廃止で総てが決着した訳ではなかった。公家の間にも関白廃止などの急進改革に対する不満があったし、在京諸藩にも、薩摩藩の強硬な動きに反発が高まった。松平春嶽や徳川慶勝らは巻き返しに動き、岩倉らは妥協の姿勢を見せた。公家の議定に岩倉を昇格させ、諸大名の議定に慶喜を加えることが決まり、朝廷から大阪城の慶喜に対して軽装で上洛するように命令が下った。慶喜は大阪城で風邪のため臥せっていたが、病を押して、義憤収まらぬ将校や兵士を懸命に説得した。しかし大目付や目付までほとんど半狂乱のありさまで、ついに「お前たちの勝手にしろ」と慶喜もさじを投げた。そして薩摩側の罪を列挙した弾劾書である「討薩表」の作成を許した。慶喜は旗本で陸軍奉行の竹中重固にこの「討薩表」を薩摩側へ持って行かせった。

――臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主のこと)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

 罪状書

一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事。

一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事。

一、私意を以て、宮・堂上方を恣に黜陟(ちっちょく=官位を上げ下げすること)せしむる事。

一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫り候条、朝廷を憚からざる大不敬の事。

一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、酒井左衛門尉人数屯所え発砲・乱妨し、其の他野州・相州処々焼討却盗に及び候は証跡分明にこれ有り候事。

こうして1868年1月3日、旧幕府軍15000人は喜び勇んで、京都に向け北上を開始した。朝廷では緊急会議が召集され、参与の大久保利通が「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗の掲揚」を主張し、議定の松平春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府軍の私闘でありあり、朝廷は中立を保つべき」と反論、会議は紛糾した。しかし議定になったばかりの岩倉が薩摩支持を表明し、会議の大勢は決した。この時、小松帯刀、木戸孝允、後藤象二郎は京に居なかった(?)。

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江戸での挑発に成功した西郷隆盛は、徳川慶喜の上洛を阻止せんと鳥羽伏見の街道沿いに薩長芸の「皇軍」5000人と新鋭銃と大砲で待ち構えていた。江戸幕府が参勤交代のために造らせた街道は幅2間(3.8m)と定められている。京都に入るまでは平穏に行軍するよう慶喜から命令されていた旧幕府軍は、狭い街道を縦に長くなって、銃に弾丸を込めないで進軍した。鳥羽街道の先頭は京都見廻組400名(和装に甲冑、鎖帷子、銃は持たず刀槍のみ)を率いる大目付の滝川具挙で、討薩表を朝廷に提出する使者である。続いて主力の陸軍歩兵第一連隊、歩兵第五連隊、伝習第一大隊、砲6門、桑名兵4個中隊、砲6門が進んだ。総指揮を執るはずの陸軍奉行の竹中重固は会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などと、鳥羽街道から離れた伏見奉行所にいた。

3日(西暦1月27日)午前、街道を封鎖するために南下する薩摩軍の斥候と京都見廻組の先発隊が上鳥羽村において接触した。見廻組は通行の許可を求めたが、薩摩軍斥候はそれを認めず可否を京都に問い合わせると回答した。そのため見廻組は鴨川左岸へ引き返した。薩摩軍はこれを追尾して前進し、鴨川を越え、小銃五番隊、外城一番隊、外城二番隊、外城三番隊の4個小銃隊および一番砲隊の半隊砲4門が鴨川左岸に展開した。旧幕府軍は戦闘準備をせず行軍隊形のまま停止した。「通せ」「確認中」と押し問答が繰り返され、午後5時ころ「最早や夕刻ともなる。強行して入京す」と主張し、旧幕府軍は封鎖を突破するため縦隊で行軍を開始した。すると薩摩軍は一斉に射撃を開始した。滝川具挙は騎乗して進軍していたが、大砲が爆発すると馬が逆走し兵列が大混乱に陥った。一方、伏見では戦闘が激化すると、洋式銃に怖れをなした竹中重固は戦線から逃亡した。さすがに夜になると、同士討ちの恐れもあり戦闘は止まった。

朝廷側は1月4日に議定の仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じて、かねて準備した錦旗と節刀を与え、薩摩兵と長州兵が「錦の御旗」を掲げ「官軍」が突然出現した。その時、広島藩の辻将曹は「あれは薩摩と長州の私闘」と述べ、薩長軍からの援軍要請を拒み、藩兵に一発の発砲も許さなかった。薩土密約に従い、一日遅れで参戦した土佐兵には「錦の御旗」が与えられた。戦闘は3日続いたが、旧幕府軍は「賊軍」となったことで戦意が怯み、思わぬ総崩れとなり大阪城へと追い返えされた。「天皇と戦争をしてはならぬ」という信念の徳川慶喜は、大阪城に留まり床に臥せったまま(?)であったが、薩摩に対し怒り渦巻く城兵を御し切れず、裏門から密かに大阪城を抜け出し、1月6日に大阪湾に停泊中の軍艦開陽丸で松平容保、松平定敬らと江戸へと退避した。軍艦奉行の榎本武揚は取り残された。この日、新政府は徳川慶勝に命じて二条城を接収した。

榎本は大阪城に残された銃器や刀剣、18万両を運び出し、無傷の旧幕府の艦船を引き連れて江戸へ向かった。江戸城無血開城のとき新政府に艦船を引き渡すことになったが、榎本は開陽丸や大阪城から持ち帰った武器、資金とともに逃げ去り、函館の五稜郭に立て籠もる。新政府は「追討令」を出し慶喜を「朝敵」にして、長州藩が大阪城を接収したが、城の金蔵は空であった。

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将軍になってから一度も江戸城に入ったことの無い慶喜にとって、徳川宗家の当主として、初の江戸帰還であった。慶喜を迎え江戸城内は「朝敵」にされたことに怒りが沸騰しており、陸軍奉行並兼勘定奉行の小栗忠順や海軍副総裁に任ぜられた榎本武揚らは主戦論を強く主張した。しかし慶喜は「徳川家よりも天皇を守る」この水戸学の教えを貫き主戦論者を次々と解任、2月12日に江戸城を出て上野寛永寺(貫主は孝明天皇の義弟)で謹慎し、天皇に忠誠を尽くす姿勢を変えなかった。

長州藩は、薩長芸3藩の出兵盟約によって、広島藩と薩摩藩の旗を立てた偽装船に兵1300人を乗せ、1967年12月10日に京へ上らせていた。土佐藩は、山内容堂の出兵禁止を無視して薩土密約を守って在京の藩兵100人が鳥羽伏見の戦いに加わった。また解任されていた板垣退助は許されて軍令首脳に復帰し、1月9日に洋式部隊の迅速隊600人を率いて土佐を出発、まず四国各藩を制圧した。そして戊辰戦争では東山道軍(鎮撫総督は岩倉具視)の参謀として目覚ましい活躍をする。

広島藩では、1867年9月19日に、藩士の一部と農民募集兵からなる1200人の神機隊を旗揚げし、洋式練兵に取り組んでいた。その神機隊の船越洋之助は北陸道軍(鎮撫総督は高倉永祐、参謀の一人は山県有朋)の参謀になる朝命を受け京都に上った。しかし鳥羽伏見の戦いで発砲しなかったため「錦の御旗」を貰えなかったことが、長州や諸藩から笑いものされていることに怒った船越は、参謀就任を断り、広島に戻ってしまった。広島藩内は「薩摩や長州に騙された」「天皇の軍隊として参戦すべき」と激論となったが、藩論は、財政難のためもあり、上洛中の藩兵(1000人余り?)を戊辰戦争に参戦させないことを決めた。

神機隊は出兵せずの藩の決定に強く反発し、自ら軍費を調達して326人の精鋭を派兵した。京で「錦の御旗」を授けられ、上野で彰義隊と戦い、奥州戦争では「まともに歩ける者80人」となるほど奮戦した。そこで広島から応援部隊が派遣され諸隊を含め2700人余が戊辰戦争で戦い、広島護国神社には神機隊大砲隊長の高間省三(20歳)ら78名の戦死者が祀られている。



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