(徒然道草53)異聞「学生寮修道館の物語⑦」
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(徒然道草53)異聞「学生寮修道館の物語⑦」

2023年06月28日(水)11:55 AM

徒然道草53  異聞「学生寮修道館」の物語⑦

江戸時代の有力大名は徳川800万石、前田102万石、薩摩72万石、伊達62万石、尾張61万石、紀州55万石、細川54万石、黒田47万石、浅野42万石、毛利36万石であり、浅野藩は9番目である。江戸幕府は、将軍家とそれを守る御三家、御三卿、そして松平を名乗る親藩や直参の家臣である旗本から成り立っており、幕政の実務を委ねられたのは、10万石以下の譜代大名であった。 

浅野藩は外様大名ながら、長州藩監視のため抜擢されて広島を領地として与えられたことから、徳川幕府への忠誠心の篤い藩であるが、日本外史を表した頼山陽を生んだ藩でもあり、藩の気風は尊皇であり、幕末には藩論も「尊皇」と決められた。1827年に日本外史は、頼山陽から老中首座を務めたことのある松平定信に献上され、2年後には大坂の秋田屋など3書店が共同で全22巻を刊行し、幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書である。そのためもあって浅野藩は「尊皇」の長州藩に対して、幕末には心情的に近く、毛利氏の擁護に努めている。

11代藩主浅野長訓は、わずか21歳で急死した10代目藩主慶熾の意志を継ぎ朝廷への接近を試みた。1862年、藩の用務で江戸へ向かう執政の野村帯刀に、病と称して途中の伏見に滞在することを命じ、近衛関白に接見させて、次の様な内奏を行った。(12代藩主の浅野長勲自叙伝より)

「わが藩主は勤皇の諸藩と共に王事に尽力し、天恩万分の一に報い奉る趣旨である」

この陳述を大層喜んだ関白は、孝明天皇に伝えたところ、8月17日に天皇から、

「皇国の御為、周旋尽力致す可き」との内勅が浅野長訓に下された。長訓は感激の至りに堪えず、

10月25日に広島を発って京都に赴き「天顔を拝し、天盃を賜り、之より大いに国事に尽力致す」ことを誓った。嗣子長勲は江戸から京都に駆け付け、藩政改革のため国元へ帰藩した養父に代わり「決起尽力するに至り」、長州、薩摩、土佐とともに広島藩は、孝明天皇の「宸襟を安んずべき」ために奔走することになる。

天皇親政による「公武合体政体」を目指すため、幕府が大政奉還するという考え方は、幕臣の一部では早くから浮上していたが、浅野長勲はこの「大政奉還論」を朝廷や幕府に働きかける動きに出た。一橋慶喜に会見を求め、「天下の為にも徳川氏のためにも誠に結構である」と説くと、慶喜は「私も同じ考えであるが300年間政権に有って居った幕僚がどうしても従わぬ」と言ってポロポロと涙を流した。江戸幕閣の中には「一会桑」政権を二条城から追い落とすことを狙う企てもあった。

次いで浅野長勲は、薩摩の家老小松帯刀と、土佐の参政後藤象二郎に会って大政奉還建議を話すと、両者はともに賛成した。後藤象二郎がこの案を土佐に持ち帰ると、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄される山内容堂は、藩論を武力討伐から公武合体に戻した。しかし山内容堂は、後藤象二郎が求めた土佐藩兵1000人の京都出兵は許さず、建白書から将軍職廃止の条項を削除させた。土佐藩は1867年10月4日(西暦10月29日)付け、広島藩は翌日10月5日付けで、この建白書を幕府に提出した。徳川慶喜はこの建白書を受け入れた。浅野藩は長勲の奮闘で大きな成果を上げながらも、「その功は、土佐藩に帰した。惜しいかな哉」と自叙伝で述懐している。

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 西郷隆盛は、島津久光が幕政改革工作のために上京するのに先立って1962年春に鹿児島を出発したが、下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞き、久光の下関での待機命令を破って、西郷は大阪へ向けて出航して過激派志士たちと接触した。久光はこの勝手な行動に怒り西郷を捕縛させて鹿児島に送り返し、再び島流しにした。島津久光の江戸や京都での尽力で、新しい公武合体政体実現は少しずつ進んでいたが、尊皇派と佐幕派の激しい攻防の続く中で、島津久光の努力は一転、行き詰まり状況に陥ろうとしていた。そのため、久光から実権を委ねられた家老の小松帯刀は、大久保利通とともに西郷呼び戻しを再び久光に訴えた。島津久光は、渋々それを許し、西郷隆盛は2年余の島流しから赦免された。小松帯刀は大久保利通と西郷隆盛を連れて上洛した。小松帯刀は薩摩藩邸だけでなく、近衛家から拝借した1800坪もある屋敷「御花畑」を拠点に、孝明天皇と結ぶ慶喜の「一会桑」政権の薩摩排除の動きに対し、巻き返しに暗躍した。

薩摩藩は、会津藩と結んでいた軍事同盟を破棄し、1866年1月21日(西暦3月7日)、京都を追われた長州藩の木戸孝允と小松帯刀邸で密会し薩長同盟を結んだ。さらに1867年5月21日(同6月23日)小松帯刀邸で土佐藩の板垣退助と薩土密約を結んだ。土佐藩は後藤象二郎と坂本竜馬の公武合体派と、板垣退助の討幕派が別の動きをしていたが、山内容堂は、承知の上であった。山内容堂に命じられて板垣退助は土佐藩の弓隊を廃止して鉄砲隊を組織、坂本龍馬を使って新鋭銃を長崎から入手して長州藩に倣い洋式練兵を行った。坂本龍馬は、双方に関わりを持っていた。

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長州征伐のため大阪城に入った将軍家茂が1866年7月20日(西暦8月29日)に死去すると、一橋慶喜は徳川宗家の家督を継いだ。しかし、長州征伐や兵庫開港などの多くの「宿題」や言う事を聞かない江戸幕閣、うるさい有力大名との確執を抱える将軍職への就任には難色を示し続けた。およそ4カ月後、孝明天皇の命令を受け入れて、1866年12月5日(同翌年1月10日)に15代将軍を引き受けた。将軍になっても江戸城に入らず、二条城に在ったが、幕政の改革に次々と取り組み、老中首座の板倉勝静を二条城に移し、そのほかの老中は月番制を廃止して、陸軍、海軍、国内事務、外国事務、会計の部局を設け、その長官である総裁にそれぞれ充てた。さらに、旗本の軍役を廃止(銭納をもって代替)してフランス軍事顧問団の指導の下で軍制改革を行い将軍直属の2万5000人の洋式軍隊を編成するとともに、横須賀に製鉄所や造船所を造らせた。有能な勘定奉行の小栗忠順は長州征伐の軍事費の調達任務終えた途端に、新たに「幕政改革のための費用捻出」を命じられ、フランスと借款交渉を進めるなど、走り回って働かなければならなかった。

 幕府が長州と講和に踏み切る直前の1866年8月30日(西暦10月8日)、岩倉具視は親幕派の関白二条斉敬や朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名の公家が朝廷に列参奏上した。しかし孝明天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下した。

そして12月5日に慶喜が将軍になった直後の12月25日(西暦1867年の1月30日)に思わぬ事態が起こった。孝明天皇が天然痘で崩御した(35歳)。慶喜は最大の後ろ盾を失った。岩倉、大久保、西郷ら急進派内だけでなく諸大名や幕閣からも、「破約攘夷にこだわる孝明天皇こそ公武合体政府実現の最大の障害」という不満が出始めていた中で、天皇の急死は毒殺説さえ囁かれた。

私は孝明天皇の急死は「憤死」であったと思う。日本国を一つにまとめるために「孤軍奮闘」してきた天皇は、言う事を聞かないどころか勝手に「偽勅」を出す岩倉らの公家、足並みのそろわぬ雄藩大名や幕府との対応に疲れ切っていた。徳川慶喜や松平容保に深い信頼を寄せていたが、長州、薩摩や脱藩志士たちの暗躍振りに怒りは募り、重い天然痘から立ち直る体力気力はもはや湧いてこなかった。義弟の将軍徳川家茂はわずか20歳で病死してしまい、何とか慶喜に将軍職を引き継がせることまではやり遂げたが、そこから先の国事をどうするか、展望が持てなかったと思う。

開明的諸大名の意見を幕政に取り入れるという決断をした阿部正弘は、日本史に「パンドラの箱」を開けるという大きな功績を残したが、それは江戸幕府終焉の幕開けでもあった。わずか四半世紀の間に、諸藩が分立する幕藩体制から、「日本という統一国家への覚醒」が一挙に進んだ。薩摩、長州、芸州は軍事同盟を結び、幕府や会津、桑名に代わり、天皇の皇居を護衛する「皇軍」となった。そして岩倉具視らは鳥羽伏見の戦いで、鎌倉幕府と戦った承久の乱のときの後鳥羽上皇や、笠置山の戦いのときの後醍醐天皇が使った「錦の御旗」(天皇の軍である印)を密かに用意して、「官軍」と「賊軍」の戦いを演出して、徳川慶喜に「朝敵」の汚名を被せ、260年続いた徳川幕府を壊滅させる。



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