(徒然道草51)異聞「学生寮修道館の物語⑤」
徒然道草51 異聞「学生寮修道館」の物語⑤
薩摩藩の島津久光は、幕政改革に続き朝政改革に向けて動いた。中川宮朝彦親王(現天皇の高祖父)に朝廷の旧弊打破を申し入れ、公武合体の実現を訴えた。これを受け入れて孝明天皇は有志大名を上洛させ、朝議に加える決断をした。孝明天皇の命令を受け、1863年10月3日に島津久光、10月
18日に松平春嶽、11月3日に伊達宗城、11月26日に一橋慶喜、12月28日に山内容堂が入京した。無位無官であった久光は従四位下左近衛権少将に叙任され、京都守護職の松平容保を含む6人が朝廷参預として、御所ではなく二条城で二日おきに天皇の簾前にて会議することになった。上洛中であった将軍家茂は、参預諸侯に二条城の老中部屋への出入りを許した。
1864年2月7日に始まった参預会議は、通商条約の破棄を望む孝明天皇と、そもそも攘夷は不可能であると認識していた有志大名との議論はかみ合わなかった。成り行きを懸念した中川宮が自邸に設けた酒席で、泥酔した(ふりをした?)一橋慶喜が、久光、春嶽、宗城を指して「この3人は天下の大愚物、大奸物であり、将軍後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴論を吐いてしまった。
参預会議はたちまち瓦解、孝明天皇の努力は何の成果も上げぬままに終わった。慶喜を将軍後見職に引き立てたのは島津久光であったが、両者の確執はこうして始まった。
参預会議が失敗すると1864年3月25日、一橋慶喜は将軍後見職を辞して、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に任じられた。そして孝明天皇に忠誠を尽くすために二条城に在って、言う事を聞かない江戸幕閣とは距離を置き、京都守護職の会津藩主(28万石)松平容保、その実弟で異例の抜擢で京都所司代に任命された桑名藩主(11万石)松平定敬と連携して「一会桑」政権を結成した。神君徳川家康以来と称賛され、ある意味で一橋慶喜の絶頂期である。孝明天皇にとっても、多くの反対勢力を抱えながらも「公武政体論」がやっと一歩踏み出した形となった。
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しかし、1864年後半は京都動乱の幕開けでもあった。7月8日に新選組の近藤勇、沖田総司、永倉新八ら4人が池田屋に斬り込み、尊皇攘夷の謀議をしていた長州、土佐などの志士20人余を襲い、土方隊の到着もあって、9名を討ち取り4名を捕縛した。この新選組を使って京の治安維持を狙う会津藩に対する怒りが引き金になり、8月20日には長州藩士らが御所に発砲する「禁門の変」が起きた。一年前の政変で京都を追放された長州藩は藩主毛利敬親や世子毛利定広の名誉回復を図るため、上洛して朝廷に直訴しようとした。長州藩内では激論の末、周布政之助や高杉晋作らの「もっと時期を待つべきだ」という慎重論が退けられ、3家老や来島又兵衛らの進発論が決まった。
毛利定広の上洛に先立ち、長州から出発した家老福原元僴(もとたけ49歳)は兵500人(?)を連れて長州藩伏見藩邸に入り、家老益田親施(ちかのぶ31歳)は久坂玄瑞や真木保臣ら本隊500人(?)と天王山(秀吉が山崎の戦いで本陣を置いたところ)に布陣、家老国司親相(くにしちかすけ22歳)は天竜寺(京都嵐山近く)に来島又兵衛らと兵600人(?)で着陣した。幕府は不穏な空気に備えるため、諸藩に京都出兵を命じていた。朝廷は長州藩兵が京都に入ることを認めなかった。毛利定広隊の到着を待つべきだと久坂玄瑞らは慎重論を唱えたが、跳ね上がりの来島又兵衛の主張を抑えきれず、御所への進軍が決まった。しかし長州藩の足並みは乱れた。深夜に伏見藩邸を出陣した福原隊は、大垣藩、彦根藩、会津藩に進路を阻まれ、京都に入れないまま敗走した。国司隊の来島又兵衛の遊撃隊は一番早く御所の蛤門に到着した。来島は高杉晋作の騎兵隊創設に触発され遊撃隊を組織し総督となった強硬派で長州から遊撃隊300人を連れて上洛、京では諸藩浪士らを含め戦闘員は600人に膨れ上がっていた。朝廷に「嘆願」を訴えるため蛤御門を突破しようとしたが、御所を守る会津兵や新選組と激烈な戦闘となった。天王山から出撃した本隊は出遅れた。御所に到達した時には、西郷隆盛率いる薩摩隊の加勢を受けた会津藩の攻撃で長州側は総崩れとなっており、来島又兵衛は負傷して自決していた。久坂玄瑞らは、越前藩隊を突破できず、気脈を通じていた前関白の鷹司邸に侵入して最後の望みを託そうとした。しかし鷹司輔煕(ひろすけ)は朝廷への嘆願要請を拒み逃げさった。進退窮まった久坂玄瑞は自刃した(松下村塾一の秀才、24歳)。
脱藩志士らのリーダーである久留米藩の神職であった真木保臣は、長州藩兵の敗走を見届けると、天王山に踏み止まり、新選組や会津兵と最後の死闘を演じ、脱藩浪士16人とともに爆死自害した。51歳であった。天王山には肥後6人、土佐4人、久留米4人、宇都宮2人、肥前1人、あわせて17烈士の墓がつくられおり、久留米の水天宮内には真木神社が建立されて祀られている。だが久坂や真木は本当に日本にとって英雄であろうか。「攘夷」も「鎖国」も明治政府はすべてホゴにしている。
長州勢の死者は256人(?)281人(?)400人(?)、会津藩の死者は101人(?)新選組40人(?)と諸説ある。禁門の変の戦いはわずか一日で決着がついたが、「大坂夏の陣」以来の250年ぶりの戦乱となり、逃げる長州藩が京の町に放火(会津側による長州兵炙り出しの放火説もある)したために、京の町は2万7000戸、寺社253カ所が焼ける大惨事となった。激怒した孝明天皇は8月24日に、一橋慶喜に「すみやに誅伐せよ」と、長州藩の討伐を命じた。天皇の勅命が公家を通さず直接幕府に下されるのは異例であった。毛利定広は上洛途上の讃岐多度津で禁門の変の敗北を知り、山口へ引き揚げた。長州藩は「朝敵」となり、1864年9月3日に将軍家茂が長州討伐の軍役を発した。
この時の戦乱で京の町は半分近くを焼失した。このことが明治維新の東京遷都に繋がる。
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時を同じくして、イギリスは仏米蘭に呼びかけ、攘夷の急先鋒である長州藩を叩くために四国連合艦隊17隻、5000人の兵力で下関に襲い掛かった。1864年8月4日に戦闘が始まった。馬関(現下関の中心部)と彦島を砲撃、さらに陸戦隊が上陸して、砲台を占拠して徹底的に破壊した。長州藩は主力部隊を京都へ派遣しており、兵2000人、大砲100門に過ぎず、完敗した。1864年9月8日
戦闘に敗れた長州藩は、講和使節として肝っ玉の据わった高杉晋作を任じた。この時の晋作は24歳、脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑馬を名乗り談判に臨んだ。
18日に講和が成立した。下関海峡の通航の自由、石炭、食物、水などの売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台の撤去、賠償金300万㌦の支払いの五条件すべてを受け入れた。
連合国側は、「彦島の租借」も要求したと、通訳を務めた伊藤博文は述懐しているが、高杉晋作は断固として領土割譲要求は撥ね付けた。「香港と同じ目に合う恐れがあった」というが、ここは真実かどうか歴史的評価は定まっていない。また、300万㌦の賠償金は「攘夷実行は幕府の命令に従ったまでだ」と主張して、高杉晋作は長州藩の支払いを拒否した。やむなく幕府がこの賠償金は支払うことになった。さすがに300万㌦は多すぎた。幕府はとりあえず150万㌦を支払い、残額は明治新政府が1874年(明治7年)までに分割で支払った。アメリカは合計で78万5000㌦の賠償金を得ていたが、実際の損害は1万㌦に過ぎなかったため、1883年(明治16年)2月23日、アーサー大統領は不当に受領した分の日本への返還を決裁している。
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異国の脅威によって引き起こされた幕末の激動期は、阿部正弘が諸大名や市井の意見を募ったことで、開国か鎖国かを巡って議論が沸き起こり、「日本」という国家の目覚めが始まった。幕府も朝廷も有志大名を取り立てて、打開策を探ろうとしたが、毛利敬親はその中に入っていない。
長州藩では藩論を定めるときに、重臣や支藩の藩主、有能藩士が意見を述べ、徹底的に議論した。藩主毛利敬親はそれを何時間も黙って聞き、その場の論議が収斂されると、「そうせい」と敬親が引き取り、藩論となった。島津久光や山内容堂のように、意見を押し付けることをしなかった。それをやれば、「藩主といえども暗殺される恐れがあった」(?)と毛利敬親は警戒していたようである。