(徒然道草その37)安芸武田氏はなぜ戦国大名になれなかったか
律令制で定められた地方官の最上位の国司は、任期4年で交代する。それに対して、鎌倉武家政権によって始まった守護職は、任期があったかどうか良くわからない。親から子や孫へと何代も続いた場合もあれば、何カ国もの守護を兼務したものもいる。しかし、室町時代になるとしばしば代わったようである。
源頼朝から甲斐の守護に任じられた武田氏5代目の信光は、1221年に承久の乱の功績により安芸守を任じられて2カ国の守護となったが、拠点の甲斐を離れることなく、安芸の国には守護所を建てて守護代を派遣した。安芸国守護となった武田氏は佐東、安南郡方面において中小武士や在国官人を家臣化し、荘園や国衙領(こくがりょう=国司の力が及ぶ領地)を押領して支配の基礎固めに乗り出した。そして、鎌倉幕府の元寇防備命令により、武田氏7代目の信時の時代に安芸の国に下向し、佐東銀山城(さとうかなやまじょう=その昔に銀が採れた?)を、安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)にある標高410mの山の上(現在は武田山と呼ばれる=広島城の北4㌔太田川の西)に築いた。だが一時この城は落城(1299年)してしまい、鎌倉時代末期に9代目当主の武田信宗によって、自然の要害を利用して周辺の尾根に50以上の曲輪を持つ巨大な連郭式山城として整備された。岩を利用した御門跡などの遺構が現存するものの、後世の山城に見られるほどの築城が行われた形跡は少なく、自然の要害を利用しただけの城であった。
鎌倉時代末期には、甲斐武田氏は拠点の甲斐守護職を失い、安芸の国が実質的な甲斐武田惣領家の拠点となった。その後、南北朝時代に足利尊氏に従った10代目の武田信武が、甲斐守護に返り咲き、甲斐国守護職は嫡男の信成、安芸国守護職は二男の氏信がそれぞれ継承し、甲斐と安芸の両武田氏に分立した。しかし、両武田家は足利政権では相次いで甲斐と安芸の守護職を失い、分国守護職に格下げされてしまう。
安芸の国は律令の国・郡・里(郷)制により、8郡からなる。沼田郡(7郷)、 賀茂郡 (9郷)、安芸郡(11郷)、佐伯郡(12郷)、山県郡(8郷)、 高宮郡(6郷)、高田郡(7郷)、豊田郡(6郷)である。安芸守護は、この8郡すべてを管轄する。しかし安芸武田氏に代わって、足利政権に近い名門の今川氏、細川氏、山名氏が次々と安芸の国の守護職に就き、1430年ころの武田氏14代目の信繁は佐東、山県、安南の三郡守護職の地位でしかなかった。(郡はしばしば統廃合され、名称も変わった)
1440年に武田氏15代目の信栄は、足利6代将軍の義教から一色義貫討伐を命じられ、これを討った。このときの恩賞として一色氏の遺領のうち若狭守護職と尾張国智多郡を与えられた。安芸の国の分国守護に甘んじていた武田氏は、京の都に近い若狭の一国守護職を得たのである。信栄のあとは弟の信賢が継ぎ、着々と若狭の領国支配体制を確立していった。
一方、安芸の国では西の隣国の大内氏との対立が深まり、1457年には大内軍が銀山城に攻め寄せてきた。武田氏は足利幕府の命を受けた毛利、吉川氏の支援を得て、どうにか落城を免れることができた。この時は信賢の父信繁が分国守護代として銀山城を守っていたが、その死後は信賢の弟元綱がその地位を継承した。安芸武田氏の子孫が若狭守護職と安芸分国守護職の二カ国を受け継いでいたが、元網の跡を継いで銀山城の主となった武田元繁は、そのころ絶頂期にあった大内義隆に従って、上洛軍に加わった(1508年)。大内義隆は前将軍・足利義尹を10代将軍として復職させ、管領代として幕政を担うようになると、武田惣領家は再び大内氏と対立し、本拠を若狭国に置くようになり、若狭と安芸の武田氏は完全に分立した。
安芸の国で起こった厳島神社の神主後継と神領支配を巡る内紛が1515年に発生した。それを鎮圧するために大内義興は、武田元繁を京都から安芸の国に帰還させた。すると安芸に戻った武田元繁は、義興から与えられた妻を離別し、反大内の態度を示すようになった。これに怒った大内義興は、毛利興元、吉川元経に命じて、武田元繁を攻撃させた。武田元繁は山陰の尼子氏と結び、大内氏側の毛利・吉川勢との攻防戦に突入したが、1517年の戦いで、武田方の勇将熊谷元直を失い、元繁も流れ矢にあたって落馬したところを討たれてあえなく戦死した。この戦いは毛利元就の初陣であった。安芸武田氏は元繁を失うとてその勢力は急激に衰退していくことになった。
元繁のあとは武田光和が継ぎ、大内氏と対峙した。1524年に大内義興は3万余の兵を率いて、光和の拠る銀山城に押し寄せた。武田氏の危機を知った尼子経久は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行した。この尼子軍のなかには、大内側から寝返った毛利元就も従軍していた。尼子軍の出撃によって、大内氏は銀山城を落すことができず、兵を引き揚げた。
武田光和は、武将として秀でたところもあったが、落ち目の武田氏を復活するまでには至らなかった。光和は熊谷信直の妹を妻に迎えていたが、女は2年後に実家に逃げ帰り再婚してしまった。これが原因で熊谷氏は武田氏から離反して毛利氏に走り、武田氏の衰退を一層早めた。武田光和は熊谷氏の本城を攻めたが、熊谷氏の守備は堅く、ついに兵を引き揚げた。その後、ふたたび熊谷氏を攻めようとした矢先に33歳の若さで病死してしまった(1535年)。
武田光和には子供がいなかった。そこで若狭武田氏から信実を迎えた。しかし、養子のため家中の統率が取れず、元繁・光和の弔い合戦を巡って重臣たちの会議は紛糾した。安芸武田氏は内乱状態に陥入り、家臣の中から銀山城を逃れ去るものが続出し、当主の武田信実も銀山城を捨てて若狭に戻った。
1540年に、尼子晴久が、また大内側へと寝返った毛利元就を討つため安芸に出陣すると聞いた武田信実は、尼子晴久に銀山城再興を願いでた。尼子晴久もこれを承諾し、牛尾遠江守に兵2千を与え、武田信実とともに銀山城に帰城させた。安芸に進軍した尼子晴久は毛利元就の拠点の郡山城を攻め立てたが、攻略できないばかりか翌年には大内氏の救援軍の出現と毛利方の反撃によって敗れ、尼子軍は出雲に退却していった。
ついに銀山城は孤立し、武田信実はふたたび城を捨てて出雲に逃れ、多くの城兵も逃れ去った。しかし、銀山城にはなお3百余の兵が立て籠り、城を枕に討死を決していた。ところが、重臣香川氏らは毛利氏と和睦を進め、ついに銀山城は開城となった。ここに至って、承久の乱以来320年、安芸に勢力を維持してきた武田氏は、1541年6月、全くの終焉を迎えた。
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