(徒然道草その36)最強の戦国大名「甲斐武田氏」の滅亡
武田氏は、平安時代末から戦国時代の武家で、「河内源氏」の流れを汲む。 関東に拠点を移して、武田氏の始祖となったのは源頼義(前九年の役で一躍名をあげた)の三男である源義光(新羅三郎義光)である。源義光は常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていった。1106年の兄の義家の没後、河内源氏の頭領の座を狙って、陰謀を巡らすが、その野望は露見して果たせず、源義光は自身の勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなった。
源義光は、その子義業を佐竹郷に、義清を武田郷に配して勢力の扶植を図った。しかし、源義清は吉田一族など常陸在地勢力の反発をうけ、その子清光は濫行を朝廷に告発された。その結果、ついに義清・清光父子は甲斐国に配流された。武田氏を名乗り始めたのは、①2代目に当たる源義清が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を本貫として、武田姓を名乗り始めたが最初で、その後②4代目となる信義が元服の際に武田八幡宮において祖父源義清の武田姓に復した――ことによる。従って、始祖は源義光だが、武田氏の初代は武田信義とされる。
1180年の富士川の戦いを期に、武田信義は甲斐源氏一族を率いて、河内源氏の宗家の源頼朝に協力し、武家政権が成立すると、駿河守護を任ぜられた。しかしその後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受けて信義は失脚し、弟や息子達の多くが死に追いやられた。信義の五男の武田信光だけは源頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、5代目の武田氏嫡流となる。さらに信光は1221年の承久の乱(3代将軍源実朝の暗殺後に起こった朝廷と北条氏の戦争)でも戦功を上げ、安芸守護にも任ぜられ(甲斐守護と兼務)、安芸武田氏の祖となる。
鎌倉時代の後期には、武田氏は甲斐守護職を失うこともあったが、南北朝時代には安芸守護であった武田氏10代目の信武が、足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、南朝方の武田政義を排して甲斐国守護となった。信武の子の代になって武田氏は、甲斐武田家・安芸武田家・京都武田家の三家に分かれた。
信武の子と孫の信成・信春も甲斐守護を継承したと見られている。室町時代の1416年に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、上杉禅秀の乱が発生した。武田信春の子である武田信満は甲斐守護を継承していたが、舅である禅秀に味方した。そして幕府の介入で禅秀は滅亡すると、信満は鎌倉府から討伐を受けて自害する。これにより甲斐は守護不在状態となった。第6代将軍の足利義教の頃には鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重が幕府の支援を受け甲斐へ派遣されると、再興のきっかけをつかんだ。
甲斐武田家は、18代目の信虎の頃には甲斐領内をほぼ統一して、守護大名として支配権を確立した。1541年に、父親の信虎を追放して19歳で武田家の当主となった信玄は、大名権力により治水や金山開発など領国整備を行うとともに、隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くして信濃を攻め、北信濃地域の領有を巡って越後の上杉謙信と戦った。さらに、今川氏が衰退すると同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、東海地方に進出した。強大な戦国大名となった信玄は、1572年に将軍足利義昭の要請に応じて京都上洛を開始したが、果たせぬまま52歳で病死、武田軍は甲斐国に撤退した。信玄の後を継いだ武田勝頼は美濃に進出して領土をさらに拡大し、最盛期には甲斐・信濃・駿河及び上野・遠江・三河・美濃・飛騨・越中の一部の計9カ国に及ぶ120万石を手中に収めた。しかし1575年に長篠の戦で織田・徳川連合軍に敗北し、信玄時代からの重臣の多くを失った。勝頼は上杉、北条との同盟強化を図りつつ、領域内に設けた多くの城の争奪のために、休む間もなく出兵を繰り返すが、衰退を食い止めることが出来なかった。1582年に織田信長が攻め込むと、武田一族の重鎮までもが離反し、勝頼37歳にして、450年続いた名名門武家の武田氏は滅びた。
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