(徒然道草その38)安芸の国と備後の国は同じ広さだった
福島正則は1600年10月の関ヶ原の戦い後に、徳川家康から安芸・備後2国を与えられ49万8000石の大大名になった。しかし家康の死後1619年に、福島正則は2代将軍の徳川秀忠によって、信濃国川中島の高井野藩4万5,000石に減封・転封の命令を受けて、広島城を去った。そして、かつての福島正則の領地は分割され、安芸及び備後北部・西部は浅野長晟(42万石)に与えられ、備後南部には徳川家康の従兄弟の水野勝成が10万石で入封した。
うかつにも目魁影老は、安芸の国が42万石で、備後の国が10万石であると、すっかり勘違いをしていた。それは江戸時代の浅野藩と福山藩(藩主は水野⇒幕府の天領⇒松平⇒阿部と代わった)の石高を指すだけで、律令国家の大きさとは関係ないことに、つい最近になって気付いた。
古代の吉備国は大化の改新(646年)後に、備前、備中、備後、美作の四カ国に分割された。そして律令制度が始まったころの8世紀半ばには、安芸の国と備後の国の広さはほぼ拮抗していた。しかし人口は備後の国の方が多かった。
≪安芸の国は8郡66郷からなる≫
沼田郡(7郷) 賀茂郡(9郷) 安芸郡(11郷) 佐伯郡(12郷) 山県郡(8郷)高宮郡(6郷) 高田郡(7郷)豊田郡(6郷)である。
人口約6万5,600人 調(税) 綾、白絹、塩など
国力は全国4段階のうちの2番目の上国、距離は奈良の都まで14日(遠国)
≪備後の国は14郡65郷からなる≫
安那郡(6郷) 深津郡(3郷) 神石郡(4郷) 奴可郡(4郷) 沼隈郡(4郷)品治郡(7郷)葦田郡(6郷)甲奴郡(3郷)三上郡(5郷)恵蘇郡(3郷)御調郡(7郷)世羅郡(4郷)三谿郡(5郷)三次郡(4郷)である。
人口約7万2,900人 調(税) 白絹、鉄、塩など
国力は全国4段階のうちの2番目の上国、距離は奈良の都まで11日(中国)
つまり、安芸広島藩の領土は、備後の国14郡うちの半数強を占めており、備後福山藩は深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡の6郡と、備中の国の小田郡、後月郡のそれぞれ大半であった。備後の国のうち甲奴郡は徳川幕府直轄領であり、倉敷にあった幕府代官所が支配した。
平安時代中期に編纂された延喜式(えんぎしき)によると、国力により諸国は、大国 – 上国 – 中国 – 下国の四等級に分けられていた。
大国=13カ国
大和、河内、伊勢、武蔵、上総(親王任国)、下総、常陸(親王任国)、近江、上野(親王任国)、陸奥、越前、播磨、肥後
上国=35カ国
山城、摂津、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、相模、美濃、信濃、下野、出羽、加賀、越中、越後、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、紀伊、阿波、讃岐、伊予、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前
中国=11カ国
安房、若狭、能登、佐渡、丹後、石見、長門、土佐、日向、大隅、薩摩
下国=9カ国
和泉、伊賀、志摩、伊豆、飛騨、隠岐、淡路、壱岐、対馬
また、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を「近国」「中国」「遠国」に三分類した。
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