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最後の晩餐会のテーブルで私の隣に座ったのは、三菱商事の社員である若くて背の高いオマーンの好青年であった。近隣のアラブの国々と違って、オマーンには肥満な人が見当たらない。白いディシューダーに身を包んだその青年に向かって、私 […]

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明治維新におよそ3,000万人であった日本の人口は、1億2,000万人を超え、4倍に増えた。日本人で初めてオマーンを訪れたのは歴史学者の志賀重昂(しが しげたか)である。欧州訪問からの帰路、1924年(大正13年)にマス […]

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カブース国王の最大の内政は地方巡行である。毎年、多くの大臣たちを引き連れて天幕生活を送りながら、1カ月かけて国内およそ200部族を順番に回って、部族のリーダーたちの声を聴き、多くの国民と握手をする。マスカットを離れて、こ […]

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カブース国王は、父親時代の大臣をすべて罷免した。改革を進めるための人材は全く不足していた。首相の適任者はたった一人しかいなかった。それは兄に反発してドイツに移り住んでいた叔父ターリク・ビン・タイムールであった。それまでお […]

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カブース国王の叡智と献身的なリーダーシップにより、誉れ高き国家に甦った現代のオマーン・スルタン国の姿をこの目で見てみたい――。目魁影老は高ぶる期待に胸を膨らませながら、マスカット国際空港に降り立った。30歳で国王に就任し […]

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中東の王政国家オマーンについて、この随筆では、「その2」と「その4」で触れていますが、目魁影老はついに、2017年3月14日から23日まで、オマーンに行ってきました。「その4」で松尾氏が、こここそ竜宮城と称えた国です。今 […]

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明治維新が始まって間もない明治4年(1871)12月、西欧列強の実像を探るために、新政府は史上空前の大使節団を米欧に派遣した。右大臣岩倉具視(47)を特命全権大使に、副使4名と各省から選ばれた俊才ら正式メンバー46名、そ […]

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毛利輝元は豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)3月に領国を安堵され、その支配地域の石高は、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐を合わせて112万石とされている。しかし太閤検地は必ずしも厳密に […]

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福島正則は1600年10月の関ヶ原の戦い後に、徳川家康から安芸・備後2国を与えられ49万8000石の大大名になった。しかし家康の死後1619年に、福島正則は2代将軍の徳川秀忠によって、信濃国川中島の高井野藩4万5,000 […]

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福島正則は1600年10月の関ヶ原の戦い後に、徳川家康から安芸・備後2国を与えられ49万8000石の大大名になった。しかし家康の死後1619年に、福島正則は2代将軍の徳川秀忠によって、信濃国川中島の高井野藩4万5,000 […]

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