徒然道草56 異聞「学生寮修道館の物語」⑩
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徒然道草56 異聞「学生寮修道館の物語」⑩

2023年10月26日(木)12:51 PM

 徒然道草56  異聞「学生寮修道館」の物語⑩

 「錦の御旗」の威力は抜群で、佐幕派の諸藩も次々と官軍に屈し、1868年3月までには近畿以西は新政府に恭順した。しかし会津藩主松平容保らは、奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍を迎え撃つ構えを見せた。米沢藩士・雲井龍雄が全軍の士気を鼓舞するために「討薩檄」を起草した。

討薩の檄

 初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵(つ)ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏(そし)つて幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

 皇朝、陵夷極まると雖も、其の制度典章、斐然として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。

 薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

 伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

 井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。

 右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を劫制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。

 是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。(ウィキペディアより)

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新政府は1868年1月5日、西国および桑名平定の為に鎮撫総督を各藩に派遣、7日には慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩、桑名藩、高松藩、備中松山藩、伊予松山藩などの官位剥奪と京屋敷没収、藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩、大垣藩、延岡藩、鳥羽藩などの藩主の入京禁止の処分が下した。11日には、改めて諸大名に対して上京命令が出され、慶喜追討と新政府への恭順を言い渡した。そして2月初旬、東海道軍、東山道軍、北陸道軍の3軍に分かれ江戸へ向けて進軍を開始した。

東征大総督には新政府総裁の有栖川宮親王が任じられ、参与の西郷隆盛が参謀として総指揮を執った。「王政復古」を成し遂げ議定の一人となった徳川慶勝は、かつて家康が徳川幕府を守る要として置いた尾張藩の藩主ながら、戊辰戦争では徳川慶喜の征伐に向かう軍隊を阻止するどころか周辺諸大名に新政府への恭順を強く働きかけた。大阪から逃げ帰った新選組は、旧幕府から甲府城を任され戦う姿勢を見せたが、土佐軍に敗れた。この戦闘の時から土佐の乾退助は板垣退助を名乗るようになる。祖先が武田信玄の家来であった頃の「板垣」を名乗ることで、戦いを有利に進め、徳川家の直轄地の甲府城を奪い取った。近藤勇は偽名を使って潜伏し、会津行きに備えて新選組を再編成し、隊士は227名にまで増加、下総の国流山に本陣を構えたが、新政府軍に捕縛され、4月25日(西暦5月17日)中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首され(33歳)、京都の三条河原で梟首された。

旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣の山岡鉄舟を派遣して静岡で西郷隆盛と会見させ、江戸では薩摩藩邸で3月13日と14日に西郷と直接交渉を行い、江戸城の引き渡しと徳川慶喜の助命で合意した。江戸総攻撃は回避され、4月4日に東海道鎮撫総督の公家の橋本実梁が西郷とともに江戸城に入り、慶喜の「死一等を減じ水戸での謹慎」の朝命を申し渡した。4月11日には東征軍諸兵が江戸城に入城し、城郭は尾張藩、武器は熊本藩が管理することになり、江戸は無血開城となった。フランスは徳川方に軍事支援を申し入れたが、天皇と戦う気のない慶喜は拒否した。欧州各国は一斉に中立を宣言し、東征軍が3月15日を江戸総攻撃の日と定めると、英公使パークスは江戸の町を守るため攻撃中止を猛烈に働き掛けた。日本側が恐れた外国の軍事介入は無かった。

その後も東北や新潟の各藩は奥羽越列藩同盟を結成し、激しい戦闘は続いた。盟主である会津藩は1868年11月6日に敗北し、討伐軍に一度も領国進攻を許さなかった庄内藩も2日後の8日に降伏し、諸藩の戦いは終わった。函館では旧幕府の海軍副総裁の榎本武揚、陸軍奉行の大鳥圭介、函館奉行の永井尚志、新選組の土方歳三らが最後の抵抗を続けたが、1869年6月27日に五稜郭に立て籠もっていた約1000人が投降して、戊辰戦争は終わった。

徳川宗家は取り潰しを免れ、田安亀之助(4歳、徳川家達と改名)に家督を相続させ、駿府70万石を下賜された。徳川慶喜は水戸から静岡に移り、明治30年(1897年)11月に東京巣鴨に移り住むまで静岡で過ごした。勝海舟が生活の面倒を見た。徳川慶喜は幕末の出来事は全く弁明せず、銃猟・鷹狩・囲碁・投網・鵜飼やサイクリングといった趣味に没頭し、子づくり励み2人の側室との間で10男11女を儲けた。



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