(徒然道草その35)安芸武田氏の祖先「河内源氏」の誕生
トップページ > (徒然道草その35)安芸武田氏の祖先「河内源氏」の誕生

(徒然道草その35)安芸武田氏の祖先「河内源氏」の誕生

2017年01月31日(火)1:56 PM

平安時代に生まれた武士は、朝廷や摂関家に操られながら、親子や一門の間でも、壮絶な殺し合いを繰り返し、勢力を蓄えていった。その中でも、大きく飛躍したのが源氏である。清和源氏の4代目に当たる源頼信(968年-1048年)は、摂津国に源氏武士団を形成した源満仲の三男に生まれ、武士として藤原道長に仕えた。摂関家は地方官の任命に大きな発言権を握っており、自らの荘園を管理したり拡大したりするためもあって、武士の力を利用した

 律令制の下では、農地はすべて国家のものとされ、地方官四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を朝廷が派遣して、戸籍整備や租庸調の徴税などを行った。大規模な開墾を推進して農地を増やすことも、朝廷にとって重要な政策であった。そこで、期限付きではあるが開墾農地(墾田)の私有が認められた。しかし、期限が到来するとせっかくの墾田も収公されてしまうため開墾は下火となった。そうした事態を打開するために、新たな推進策として743年に墾田永年私財法を発布した。こうして生まれる農地を、国司の介入から防ぐために、土着の豪農たちは摂関家や東大寺といった権力者に墾田を寄進し、保護を受けようとした。それが荘園の始まりである。

 律令制の国司の任期は4年であった。源頼信は、44歳で常陸介になり、その後は国司に位が上がって、石見守、鎮守府将軍、伊勢守、甲斐守、美濃守などに任じられた。そして河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)に館を建て、80歳で亡くなる。この河内を本拠地とした源氏一門は、頼信を始祖とする「河内源氏」と呼ばれるようになった。

 頼信の嫡男である源頼義(988年-1082年)は、父と同じように摂関家に仕えたが、立身出世は必ずしも順調ではなかった。かつて父の源頼信の家人であった平忠常が関東において反乱を起こすと、鎮圧に手を焼いた朝廷は1030年に源頼信・頼義親子に平忠常の討伐を命じた。頼義はこの反乱平定に際して抜群の働きをした。そのため、平忠常の乱の鎮圧に失敗して将軍を更迭されていた平直方は、その武勇に惚れ込み、自らの娘を嫁がせ、さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも源頼義へ譲り渡した。源頼義はこの平直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者たちは、後の奥州での「前九年の役」で大きな力となった。源頼義は、48歳にしてやっと相模守に任官したが、任期が終わってからも土着して関東における源氏勢力の育成や農地開墾に専念していた(?)ためか、朝廷の官職に就くことはなかったとみられる。しかし、時代の流れが源頼義の運命を変えた。1051年に63歳にして陸奥守に任官し、1053年には鎮守府将軍を兼任した。

そのころの奥州にはまだ朝廷の支配が完全に浸透していなかった。有力豪族であるの安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。そこで、陸奥守の藤原登任が数千の兵を出して安倍氏を討伐しようとしたが、逆に戦闘に敗れた。そのために藤原登任は更迭されてしまい、その後任の陸奥守として源頼義に白羽の矢が立った。大命を帯びて源頼義は、嫡男の八幡太郎義家(頼朝の曽々祖父)や坂東武者たちを伴って、陸奥の国に着任した。

翌年に、朝廷は後冷泉天皇祖母(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行った。その時、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなり、安倍頼良は陸奥に赴いた源頼義を饗応し、頼義と同音であることを憚って、自ら名を頼時と改めて、恭順の意を示した。

そのため、源頼義の陸奥守として4年間の任期は平穏に終わり、安倍頼時から惜別の饗応を受けた。鎮守府は最初は国府のある宮城県の多賀城に置かれたが、9世紀には岩手県奥州市水沢の胆沢城に移転した。この鎮守府から国府へ帰還する途中、野営していた陣が荒らされる騒ぎが起こった。これは安倍頼時の嫡男の貞任の仕業であるとの進言があり、これを信じた源頼義は安倍頼時に安倍貞任を引き渡すように求めた。安倍頼時がこれを拒否して、挙兵した。これに対して源頼義は軍勢を安倍軍の拠点である衣川の関へと差し向け、さらに安倍頼時追討の宣旨が朝廷から下された。

しかし、立ち上がりから源頼義は苦境に陥った。源頼義は配下の平永衡(妻が安倍頼時の娘)には「二心あり」との進言を信じて、彼を誅殺してしまった。これを見て、同じように安倍時頼の娘と結婚していた藤原経清は疑心暗鬼に陥り、私兵を率いて安倍陣営に走った。源頼義は立て続けに有力な幕僚を失い、兵力でも劣る事態を招いた。こうして始まった「前九年の役」は泥沼化した。

戦役の勃発に驚いた後任の陸奥守である藤原良綱は、任国地へ赴くのを恐れ逃亡してしまった。そこで朝廷は源頼義を重任して、引き続き陸奥守を命じた。

一進一退の戦況を打開するために、源頼義は調略により、安倍頼時の従兄弟といわれる津軽の俘囚長の安倍富忠を味方に引き入れた。一族からの離反者に慌てた頼時は、安倍富忠を説得しに自ら津軽へ向かったが、伏兵に襲われて重傷を負い撤退した。その傷がもとで、安倍頼時は自陣で亡くなった。しかし安倍軍は、息子の安倍貞任の下で徹底抗戦を止めなかった。そのため源頼義は、都に送った安倍頼時戦士の報告書の中で、「官軍の増援と兵糧を頂戴したい」と願い出たが、朝廷からは支援物資は届かず、論功の音沙汰も無かった。

源頼義はやむなく、兵1800程を率いて安倍貞任を討つべく進軍したが、対する安倍軍の精兵は4000人、甚大な損害を受けて大敗、九死に一生を得て鎮守府へ逃げ帰った。その後数年間は、満足な軍事行動を起こす事が出来ず、ひたすら兵力の回復を待つ日々を余儀なくされた。

1062年に源頼義は再び陸奥守任期満了の年を迎えた。朝廷は新しい陸奥守として高階経重を任地へ下向させたが、陸奥国内の郡司や官人達は経重の指示に従わず前国守である源頼義の指図に従った。そのため、陸奥守としての任務が困難と判断した高階経重は虚しく帰京した。これを受けて朝廷は三度頼義を陸奥守に任命し、併せて奥州鎮圧を源頼義に賭ける事となった。

そこで源頼義は出羽に勢力を張る清原氏の兵力に目をつけ、朝廷の命を盾に参戦を強く要請した。安倍氏とは姻戚関係にある清原氏の総領である清原光頼が参戦を渋ったため、源頼家は万策尽きて、清原光頼に「臣下の礼の形」を取ってまでも参戦を依頼する。ここに至って清原光頼は参戦を決意し、弟の清原武則を総領代理として1万の兵を率いさせて源頼義の元へ出仕させた。

1063年2月16日、頼義は貞任、経清、重任の首を掲げて都へ凱旋した。都大路は老将軍と官軍の勇姿を一目見ようと物見の民衆で溢れたという。2月25日、除目が行われ、源頼義は朝廷より正四位下伊予守に任じられ、源頼義の意に反して陸奥守からは外された。しかし、伊予国は最も収入の良い「熟国(温国)」として知られ、奥州鎮圧に12年もの歳月をかけた源頼義は、高く評価されたともいえる。伊予守の任期を終えた後は出家し信海入道と号して、87歳で生涯を終えた。墓所は大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺だった通法寺跡にある。



«   |   »