(徒然道草その34)平清盛は「安芸の守」として宮島で暮らした?
日本史では、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代と区分けして、我が国の過去の移り変わりを学ぶ。それぞれは、その時々の都の置かれた場所を指しているだけで、それはある意味では、後世の歴史家が勝手にそう呼んだに過ぎない。
701年に完成した「大宝律令」によって、日本という統一国家のかたちが整えられて、天皇を頂点とする安定した時代が続いたのが平安時代までで、鎌倉時代に入り武家支配が始まった――というのが、教科書的な理解である。しかし、源頼朝が開いた鎌倉幕府は、明治維新のように、古い支配機構を完全につくり変えたわけではない。そもそも「幕府」という名称さえなかった。(以下はウキペディアを参照)
「幕」は「陣幕」「天幕」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。英語では「tento cabinet」となるが、江戸幕府のことは「Tokugawa shogunate」とか「Edo shogunate」と訳される。
「幕府」という言葉が将軍個人や空間的な将軍の居館・政庁から離れ、今日のように観念的な武家政権を指すものとして用いられるようになるのは、藩と同じく江戸時代中期以降のことで、朱子学の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する儒学者によって唱えられた。「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたものである。それ以前には「関東」「武家」「公方(くぼう)」などと呼ばれており、それぞれの武家政権の初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。
源頼朝は、朝廷から、武士を支配する守護、地頭の任命権を認められ、全国の武士の頭領として「征夷大将軍」にも任じられた。1192年3月に後白河法皇が崩御した後の同年7月である。しかし京都の朝廷による律令制支配は続いており、頼朝は関東の実質的支配権を獲得して「鎌倉殿」と呼ばれるようになっただけのことである。鎌倉時代を通じ、主に軍事警察権と東国支配を担当する武家政権に相対して、政務一般と西国支配を所掌する公家政権が存在し、双方はおおむね協調連携しながら政務にあたっていた。経済的支配権をめぐっては、京都から派遣される国司など地方官に比べて、在地の豪族や土着した武士が就任した地頭や、地頭の上に立つて軍事力を握る守護や守護代の力が強まり、朝廷の徴税や土地支配の権限を侵食していき、室町時代後期には、一国全体を支配する「守護大名」が生まれていった。
しかし、形式上はあくまでも「将軍」という地位は、天皇によって認められたものに過ぎず、江戸時代末期の1867年に15代将軍の徳川慶喜の「大政奉還」によって、将軍職を辞退したことで、武家政権の時代は終わる。
では、本当に武家政権は、源頼朝によって始まったのか? むしろ、平清盛の方が強大な権力を握っていたと見ることもできる。頼朝の父親で「河内源氏の頭領」である源義朝を平治の乱で破った平清盛は、やがて太政大臣に上り詰め、娘を天皇に嫁がせることで、安徳天皇の祖父となり、独裁者となっていった。摂政・関白を独占した藤原氏を頂点とする公家支配や上皇による院政に代わって、武士が初めて国家権力を握った。公家とは「三位以上の位階」を世襲する家柄のことで、清盛以前の時代は、武士は「四位」までで、せいぜい地方官の国司の職位にしか昇進できなかった。
平清盛は後白河法皇に仕えて勢力を伸ばし、子供たちまでも公家の位階に引き上げ、律令制で設けられた60余国の国司の半分をも平家一門で占め、全国に500余りの荘園を保有した。また日宋貿易で莫大な利益を上げ、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、港のある神戸の福原に別荘を築いた。そして、平清盛はその福原に天皇を移して、遷都まで強行した。こうしたことから、今では初代の武家政権は平清盛説が有力となっている。
平清盛は29歳の時(1146年)、安芸守の任に就いた。
安芸国の国分寺は東広島市の西条にあった。JR駅の北側(酒蔵の町は南側)に残
る史跡は、安芸国分寺歴史公園として整備されている。当然のこととして、国府も国分寺の近くにあったはずである。しかし、平安時代中期に編纂された倭名類聚抄によれば国府は安芸郡にあった。遺跡は見つかっておらず、正確な位置は不明であるが、広島市の東に隣接する現在の安芸郡府中町と推定される。「府中」とは国司の赴任する「国府」のある場所を指す。
では、なぜ西条から移ったのか。当時の府中町周辺は、国府を設けるには狭すぎた場所である。しかし、朝廷から派遣される国司に代わって実権を握るようになった豪族の住む館があったため、ここが実質的な国府となり、中央政府もそれを追認せざるを得なかったのではないかと考えられる。あるいは、瀬戸内海交易が盛んになり、港町として発展し始めた海岸に国府機能が次第に移っていったため、安芸の国の拠点を替えたのかもしれない。それとも、狭すぎて国分寺を建造する場所が確保できず、仕方なく国分寺は西条に設けた、ということかもしれない。
平安時代末期に安芸の国司に任じられた平清盛は、府中町にあった国府に果たして着任したであろうか。当時の国司の任期は4年であったが、京都に留まり、現地に「受領」という代理を送り、自ら赴任しない「遥任」も珍しくはなかった。あるいは、常駐しないまで、時には安芸の国まで赴任したものの、狭い国府に住むよりも、宮島に別荘を建てて、そこに暮らしていたのではあるまいか。「平家物語」よれば、清盛は夢枕で「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」とのお告げを聞いたという。まさに、武家政権を確立するまでに栄華を極めた清盛は、深く厳島神社を信仰し、今に残る寝殿造りの社殿を造営し、国宝に指定されている「平家納経」(平家一門の写経33巻)を、この厳島神社に奉納した。
« (徒然道草その33)広島は首都東京に次ぐ重要な「軍都」であった | (徒然道草その35)安芸武田氏の祖先「河内源氏」の誕生 »