(徒然道草その41)現世の「竜宮城」オマーン訪問記①
中東の王政国家オマーンについて、この随筆では、「その2」と「その4」で触れていますが、目魁影老はついに、2017年3月14日から23日まで、オマーンに行ってきました。「その4」で松尾氏が、こここそ竜宮城と称えた国です。今回の訪問記はかなり長文になってしまいました。ネット世代は長文を読むのは苦手と聞いていますので、6回に分けて掲載します。
わくわくドキドキしながら、日本・オマーン協会の大森啓治理事長を団長とするオマーン訪問ツアーに参加しました。一行は女性7人、男性7人の14人で、若い2人の女性を除けば平均年齢70歳近い愉快な仲間でした。
日本・オマーン協会主催の訪問ですから、オマーン外務省や日本大使館、オマーン・日本協会といった関係先を公式訪問するとともに、世界遺産の古都ニズワや星の降って来そうな砂漠、岩山の谷間に水の溜まったワディ、青ウミガメが産卵するビーチ、日本との合弁であるオマーンLNG(液化天然ガスを生産)まで、トヨタの4WⅮ車4台で巡る2泊3日のツアーに出掛けました。首都マスカットに戻って、モスク、スーク(古い市場)、王宮や博物館をマイクロバスでガイドとともに回る一日観光があり、そして最後の夜は、3泊した五星ホテルでお礼のパティーを開き、駐在する日本企業や大使館関係者などお世話になった20人余りの人々と一緒に、庭の芝生に設けられたビュッフェに並ぶオマーン料理(お酒は有りません)を堪能しながら、楽しいひと時を過ごす思い出深い旅行でした。
アブダビ経由の飛行機でしたから、帰路はドバイも半日見て回りました。往復とも10時間を超すフライトで、しかも機中泊となり、オマーン滞在時間は実質7日間ほどでした。その旅でヨタヨタ徘徊老人が見て聞いてこと、帰国後に考えたことをまとめてみました。
☆目魁影老レポート☆
すべての国家は栄枯盛衰を経験する。ポルトガルを駆逐してインド洋交易の覇権を握ったオマーンは、およそ200年前にはインドから東アフリカに及ぶ海洋大帝国を築いた。1832年には赤道直下に近いタンザニアのザンジバルに王宮を建設して、国王はアラビア半島の東端のマスカットから東アフリカに遷都した。その距離は東京と香港ほど離れていた。しかし偉大なサイード・ビン・スルターンが亡くなるとオマーンは、マスカット・オマーンとザンジバル・オマーンに分裂し、さらに帆船の時代が終わり、海洋交易が蒸気船に取って代られると西欧列強の覇権争いに敗れ、1891年には、植民地になることは免れ王政は守ったものの、イギリスの保護国にされてしまった。
中東全域を広く支配していたトルコ帝国が第一次世界大戦でドイツとともに敗北すると、英仏は石油利権の獲得を狙い、勝手に国境線を定めて中東地域を分割支配しようとした。しかし第二次世界大戦後には世界の覇権争いの主役はアメリカとソ連に握られ、東西冷戦時代へと突入した。イスラエルというアラブ世界の驚愕するユダヤ教国家も誕生した。さらにアラブ各国の王政は共産主義者からも挑戦を受け、1952年にはナセルが軍事クーデターを起こしエジプト国王を追放した。ナセルはすぐにスエズ運河を国有化するとともに、1958年2月1日にはシリアと合併してアラブ連合共和国を建国して、イスラエルや欧米に対抗するために親ソ路線を強めていった。
ヨルダンとイラクはこうした動きに危機感を抱き、アラブ連邦を結成して対抗しようとしたが、イラクでは1958年7月14日に青年将校によるクーデターが起き、国王一家は虐殺されてしまった。
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こうした中東激動の1958年、オマーンのサイード・ビン・タイムール国王は一人息子を英国に留学させた。カブース皇太子は、1940年11月18日にサラーラの王宮で生まれたが、イエメンに近く首都マスカットから遠く離れたサラーラを離れたことはなかった。英国に到着すると、最初の2年間は静かなイギリスの田舎町で英語教育を受け、1960年9月にはサンドハースト王立陸軍士官学校に入学して、2年間の厳しい軍事教育を受けた。士官学校を卒業すると、ドイツに駐留していた英国軍のスコットランド・ライフル連隊に陸軍中尉として入隊した。
冷戦時代の最前線に駐留するライン方面軍で7カ月の軍務体験を終えた皇太子に、国王は3カ月の世界一周旅行を命じた。将来の国王になる運命を背負った皇太子は、パリ、ローマ、ギリシャ、トルコ、イラン、パキスタン、インド、日本、そしてアメリカを自分の目で見て回り、多くの写真を撮った。
再びイギリスに戻ったカブース皇太子は、そのまま帰国せず、さらに一年間イギリスにとどまって、地方政府の行政を学ぶとともに、工場、銀行、会社経営者を訪問し、オマーンを近代国家にするには何が必要か、どん欲に西欧の知識を吸収していった。
しかしながら、6年余りの留学を終えオマーンに帰国したカブール皇太子は、その学んだ知識を国政に反映する機会を全く与えられることが無かった。サラーラの王宮でその後も5年余り幽閉状態で過ごした。世界の情勢を知ることも全く許されなかった。密かに母親が持って来てくれる新聞を読むことが唯一の世界に開かれた道であった。皇太子は多くの本を読むことで、世界やオマーンの歴史や賢人たちの知恵を学び、オマーンの将来を考え続けた。
父親のサイード・ビン・タイムール国王は激動する国際情勢の中で、恐怖心に苛まれ、権限を大臣たちにも移譲せずに、強固な鎖国政策を敷いていた。中東地域では最も遅く、オマーン国内でも石油が1964年に発見され1968年からは輸出が始まっていたが、その石油収入も貯め込むばかりで国家開発に向けることを一切しなかった。
しかし世界情勢は大きく動き、1968年にはイギリス労働党内閣がスエズ以東からの英軍撤兵を決め、1971年までにはシンガポールやマレーシアから完全撤退することを表明した。保護国として80年にもわたりオマーンの外交・経済を支配していたイギリスが、アラブ地域から去っていくという危機が迫っていた。
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