(徒然道草その40)伊藤博文は弱冠31歳で岩倉使節団の副使を務めた
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(徒然道草その40)伊藤博文は弱冠31歳で岩倉使節団の副使を務めた

2017年04月26日(水)1:38 PM

明治維新が始まって間もない明治4年(1871)12月、西欧列強の実像を探るために、新政府は史上空前の大使節団を米欧に派遣した。右大臣岩倉具視(47)を特命全権大使に、副使4名と各省から選ばれた俊才ら正式メンバー46名、それに若い留学生43名などを加え、総勢108名もの大集団であった。使節団はアメリカの蒸気船で横浜を出発し、太平洋を渡ってサンフランシスコに上陸し、そこから陸路でアメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8カ月もの長期間滞在した。その後、大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪して、明治6年9月に帰国した。

留学生の中には、大久保利通の次男の牧野伸顕(11歳)、津田塾大学を設立することになる津田梅(8歳)、戦前の三井財閥の総帥になった団琢磨(13歳)、フランスの思想家ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった中江兆民(25歳)らがいた。

この岩倉使節団の4名の副使は、木戸孝允(39)、大久保利通(42)、伊藤博文(31)、山口尚芳(33、佐賀藩士で後の初代会計検査院長)であった。長州藩から2人が選ばれ、1年未満とはいえ英国留学経験のある伊藤博文が最も若かった。

使節団は1872年8月にイギリスのリバプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。

 欧州では、イギリス(4カ月)、フランス(2カ月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスを回った。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海など)にも立ち寄った。

伊藤博文は訪問第一歩を印したサンフランシスコで開かれた歓迎レセプションで大演説を行った。

 「今日、わが国が熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。この目的のために、わが国はすでに陸海軍、学術教育の制度について、欧米の方式を採用し、海外貿易はいよいよ盛んになり、文明の知恵はとうとうと流入しつつあります。しかもわが国における進歩は、物質文明だけではありません。国民の精神的進歩はさらに著しいものがあります。数百年の封建制度は一個の弾丸も放たず、一滴の血も流さず、撤廃されました。このような大改革を世界の歴史においていずれの国が戦争なくして遂げ得たでありましょうか。  この驚くべき成果は、わが政府と国民の一致協力によって成就されたものであり、この一事をみてもわが日本の精神的進歩が物質的進歩を凌駕するものであることがおわかりでしょう」

 「わが使節の最大の目的は、文明のあらゆる側面について勉強することにあります。貴国は科学技術の採用によって、先祖が数年を要したようなことを、数日の間に成就することができたでありましょう。わが国も寸暇を惜しんで勉学し、文明の知識を吸収し、急速に発展せんことを切望しているのであります。わが国旗にある赤い丸は、もはや帝国を鎖す封印の如くみえることなく、今まさに洋上に昇らんとする太陽を象徴するものであります。そしてその太陽はいま欧米文明の中天に向けて躍進しつつあるのです」

 伊藤博文の言葉には、吉田松陰の遺志を果たさんとする、明治維新の志士たちの溢れんばかりの気迫が満ち満ちていた。



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