(徒然道草その39)毛利藩の幕末石高は実質100万石? 200万石?
毛利輝元は豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)3月に領国を安堵され、その支配地域の石高は、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐を合わせて112万石とされている。しかし太閤検地は必ずしも厳密に行われたとは言い難く、その領土の広さに加え、石見銀山(50万石相当)の収入などを考慮すると、実高は200万石を超えていたかもしれない。
その後、毛利氏は関ヶ原の戦いに敗れ、徳川家康によって周防・長門2カ国に減封され、名目の石高は29万8480石2斗3合となった。その時、関ヶ原の軍功によって広島城を与えられた福島正則は安芸・備後の領主になったが、毛利氏とのバランスを考慮して、徳川幕府は名目の石高を50万石以下に抑えて、49万8,000石とした。
こうして同じ2カ国持ちながら、毛利氏は福島氏に比べて大きく見劣りする大名に格下げされたが、慶長12年(1607年)から慶長15年(1610年)にかけて新たな検地を行った。少しでも石高を上げようとして、この検地は苛酷を極めたため、農民一揆も起きているが、検地結果で実質石高は、53万9268石余であることが分かった。50万石を超える検知結果に驚いた江戸幕府、提出された御前帳の数字をそのまま毛利家の公称高とすることを恐れ、幕閣(取次役は本多正信)は慎重に毛利氏と協議した。敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則とのつりあい)、毛利家にとっても石高が多いと、幕府から多額の普請役負担を命じられる因となること、そして慶長10年に提出した御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、幕府は慶長18年(1613年)に石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。
この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余、寛政4年(1792年)の内検高 89万4282石1斗、天保郷帳作成時(1831年頃)の内検高 97万0941石8斗1升5合5勺1才、明治3年(1870年)に明治新政府へ報告した石高は 97万8004石であった。
なお石高というのは米の生産高だけではなく、他の農作物や塩田、一応長州藩の場合は漁業や商工業なども屋敷高として土地生産高に変換して、石高に含めて算出している。1625年の数字で言うと、萩本藩の石高57万5288石余の内、田方は45万0574石余(78%)、畑方は6万3749石余(11%)、屋敷方は2万9385石余(5%)、その他小物成・塩浜・浦浮役等3万1478石余(5%)となっている。
それから250年後の、明治初期の周防・長門の実際の米の収穫高は『全国農産表』によると、53万9059石(明治9年)、59万8837石(10年)、64万8426石(11年)、69万5586石(12年)、68万0104石(13年)、71万4389石(14年)、73万9644石(15年)と急増している。これは新田開発によるものではなく、農業の生産性が明治政府の努力によって急速に上がった成果によるものであろう。
もっとも石高は、農業生産高はある程度反映されるが、鉱工業・商業関係の生産高は限定的にしか反映されていない。斎藤修・西川俊作らによる『防長風土注進案』についての研究によると、1840年代の長州藩経済は、ほぼ200万石規模だったと推定している。
幕末の長州藩は島津藩や浅野藩を遥かに凌ぐこの財力によって、銃や軍備を整えることができたため、徳川幕府を倒す主役を演じることができたのである。
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