(徒然道草その30)「近代焼酎の父」は福山生まれの河内源一郎
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(徒然道草その30)「近代焼酎の父」は福山生まれの河内源一郎

2017年01月31日(火)1:30 PM

焼酎文化が日本に広がったのは河原源一郎のお陰である。

熊本地震の発生で落ち込んだ九州観光を盛り返すために、1万円の補助金付き(つまり1万円割引)のツアーがいろいろと企画された。その中に、2.5万円で羽田⇔霧島温泉2泊3日の格安旅行を見つけた。古来から神話の舞台として登場する霧島は、今も活火山であり、中腹にある薩摩藩主ゆかりの温泉ホテルからは、真正面に桜島、その遥か向こうには開聞岳が望める。「いい湯だなー」を満喫できたのは良かったが、空港までの送迎バスは朝10時発の一本だけ。飛行機の出発便はツアー旅行社の指定で、希望時間を選択できない。そのために、4時間も鹿児島空港で時間を持て余すことになった。仕方がないので、空港前の西郷公園を回り、チェコ村というテーマパークまで足を延ばした。そこは河内源一郎商店の営む焼酎と地ビールと薩摩土産販売の観光施設であった。

目魁影老は、仰天した。最初に入ったところは麹蔵。日ごろから疑問に思っていた焼酎の謎の答えが、パネル表示してあるではないか。

<河内源一郎(1883-1948)>

 広島県の福山市生まれ。1904年に広島県立福山中学校(現福山誠之館高校)卒業。大阪高等工業学校醸造科(現大阪大学発酵工学科)へ進学。1909年に大阪高等工業学校卒業後、大蔵省入りし、熊本税務監督局の工業試験場技官として鹿児島に赴任。鹿児島、宮崎、沖縄の味噌・醤油・焼酎の製造指導にあたる。

当時の焼酎はとてもマズく、また暑い時期はすぐに腐っていた。「残暑に醪(もろみ)が腐敗して困る、何とかして欲しい」と多くの業者から嘆願された河内は、本格的な研究に取り組んだ。暑い鹿児島の焼酎に寒冷地向きの日本酒と同じ黄麹菌を使っている事が原因では、と気づいた河内は、鹿児島よりさらに暑い沖縄の泡盛が腐敗しないことを思いつき、沖縄から泡盛の黒麹菌を持ち帰った。河内はこれを3年かけて培養、1910年に焼酎づくりに最適な「河内黒麹菌」(学名:アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ)を開発した。さらに、1924年、顕微鏡で黒麹菌を覗いていると、中に白みがかったカビを発見。取り出して培養すると黒麹菌より性能が安定し、この麹菌を使うと、焼酎の品質も一段と向上することが分かった。これを「河内白麹菌」と名づけ、黒麹菌の突然変異によって生じたもの、として学界に発表した。しかし当時の学者からは無視され、認知されたのは1948年、京都大学北原覚雄教授によって立証され学名をアスペルギウス・カワチ・キタハラと名付けられた時で、23年後の事であった。こうしてさらに飛躍的な品質向上をもたらす「河内白麹菌」の培養に成功したものの、地元鹿児島の焼酎蔵では黄麹から「河内黒麹菌」に切り換えたことで品質の安定した焼酎づくりが可能になっており、新しい「河内白麹菌の採用は進まなかった。

 やむなく河内は大蔵省を46歳で退官、1931年(昭和6年)に鹿児島市清水町に麹菌を製造販売する「河内源一郎商店」を創業し、各種焼酎用の「種麹」の研究を続けた。1948年、自宅の玄関で倒れ65歳で死去。絶えず増殖し続け温度や湿度が大きく作用する麹菌のために、1年中麹を入れた培養基を持ち歩き、倒れた時も試験管を懐に抱いていたといわれる。

こののち北九州を皮切りに九州全土へ、また全国へ評判が広がり、現在わが国の本格焼酎の9割近くがこの「河内黒麹菌」か「河内白麹菌」使用している。こうして河内は「近代焼酎の父」「麹の神様」と称えられるようになった。



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