(徒然道草その29)泡盛や焼酎のルーツはアラブの「欄引き」
日本に伝わった最初の蒸留酒は琉球の「泡盛」である。
倭寇と呼ばれる海賊が、13世紀から16世紀にかけて、九州北西部から船出して、東アジアを広く荒らしまわった時代があった。同じころ、琉球の人々はさらに遠く東南アジアまで航海し、交易を始めた。日本にはないアルコール度数の高い蒸留酒に初めて出会った交易商人たちは、シャム国(現在のタイ)から甕入りのラオロン(南蛮酒)を琉球に持ち帰り、その酒を王家が接待用に取り入れた。14世紀後半から15世紀頃には、蒸留酒をつくる「欄引き」(語源はアランビック)技術、タイ米、貯蔵用の甕なども琉球にもたらされた。
この「泡盛」は貴重な貢納品として扱われ、首里の王家は「焼酎職」を設けて厳重に管理した。焼酎職となった30家(後に40家)にしか「泡盛」造りは認められず、焼酎職でないものが「泡盛」をつくれば、死罪または流罪となったという。1609年に徳川幕府から琉球征伐の御朱印を得て、薩摩藩は琉球を征服した。そして極上酒である「泡盛」を貢納品として指定したことから、琉球は島津藩を通じ幕府に「泡盛」を毎年献上する必要があった。さらに中国の明国や清国への貢納品としても使われた。
泡盛は「米焼酎」の一種である。しかし使うお米は「ジャポニカ」ではなくて「インディカ」である。このインディカ米は沖縄で作られる米ではない。インドや東南アジアなど、もっと気温の高い熱帯や亜熱帯の地域で栽培される米である。しかし、当初は遥か遠い東南アジアからタイ米を大量に交易することは困難を極めたから、琉球では日本のお米や粟なども原料として使われた。
では、「泡盛」という名前が付けられたのはなぜであろうか。
①「沖縄学の父」伊波普猷(1876~1947)は、泡盛の原料に米と粟を使ったことに触れ、粟で蒸留酒を造ったことから、粟盛り→泡盛になったと説明。
②古代インド語のサンスクリット語で、酒のことをアワムリというそうで、それが伝来して泡盛になったとう説。
③蒸留仕立ての酒は、泡を立ててみることで出来がいいかどうかを調べ、良い酒は細かい泡が盛り上がり、泡が消えるまでの時間も長かったことから、泡盛という名前が付けられたという説――といろいろある。
しかし、「泡盛」という名称の登場はそれほど古くなく、1671年のこと。その年に琉球王国の尚貞王から四代目将軍徳川家綱へ贈られた献上品の目録の中に「泡盛」の記録があり、それが「泡盛」という名称の最初である。それまでは、「焼酒」や「焼酎」と表記されていた。では「焼」や「酎」は何を意味するのであろうか。「焼」という文字は、醪(もろみ)を加熱、沸騰させて造る、という蒸留酒の基本的な作業を指している。中国語では蒸留酒を「焼酒(シャオジュウ)」と表現する。そして「酎」は“強い酒”の意味である。
琉球で始まった蒸留酒づくりは、薩摩を経て、九州各地に広がっていったが、原料としては米に加えて、粟、ヒエ、キビなどの雑穀も使われた。芋が焼酎の原料になるのは、1705年に当時の薩摩藩士の前田利右衛門が、琉球からサツマ芋を持ち帰り広めたことによる。しかも、そのころの焼酎づくりは、日本酒と同じ黄麹を使っていたために、腐敗しやすく、品質も劣っていた。それを防ぐために、沖縄の泡盛は、クエン酸生成力の強い黒麹菌を使用し始めた。
インディカ米は蒸した後の粘りが少なく製麹機での加工や温度管理がしやすい。そのインディカ米から麹をつくるのに最も適したのが黒麹である。
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