(徒然道草その33)広島は首都東京に次ぐ重要な「軍都」であった
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(徒然道草その33)広島は首都東京に次ぐ重要な「軍都」であった

2017年01月31日(火)1:37 PM

明治新政府は、幕藩体制を刷新するために、廃藩置県と徴兵制を断行する必要があった。明治2年6月17日(1869年7月25日)に274大名から版籍奉還が行われ、土地と人民は明治政府が所轄することなったが、各大名は知藩事として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たっており、現状はほとんど江戸時代のままであった。

明治4年7月14日(1871年8月29日)、明治政府は知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。10時に鹿児島藩知事・島津忠義、山口藩知事・毛利元徳、佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・池田慶徳、徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはさらに在京中である56藩の知藩事に詔書が下され、藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。3府(東京・京都・大坂)302県には、知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。その後、たびたび県の統廃合が行われ、明治22年(1889年)には3府43県(北海道を除く)となって、廃藩置県は最終的に落ち着いた。

この大改革を成功に導くためには、強力な軍事力の背景が必要であった。

新政府は、明治元年2月20日(1868年3月13日)に天皇直属の軍隊として御親兵を創設したが、この創成期の帝国陸軍では、長州出身の兵学者である大村益次郎が兵部省兵部大輔として兵制の基礎を構築し、徴兵制度による国民兵制への移行を目指した。1869年(明治2年)11月に大村が暗殺されると、その後を山縣有朋が承継した。兵部省は1871年(明治4年)に、大日本帝国陸軍の起源となるフランス式兵制の御親兵10,000人(薩摩・長州・土佐から徴集、その後に近衛と改称)による常備軍を新たに誕生させた。そして東京・大阪の二個鎮台を置き、遅れて鎮西鎮台、東北鎮台を設置した。「鎮台」という語について、大久保利通の孫の大久保利謙は幕末明治維新期における「奉行所」「鎮台」「裁判所」についてはほぼ同義語であると述べている。こうして各藩の常備兵である武士は武装解除された。

1872年(明治5年)には兵部省が改組され陸軍省が正式に発足、翌73年には全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分けて、それぞれに1個ずつの鎮台を置き反乱士族の鎮圧などに当った。そして74年1月に徴兵令を発布し、同年4月に東京鎮台に初の徴兵による兵卒が入営した。その後1888年(明治21年)に6個鎮台はそのまま師団に改編され、それぞれ第1師団・第2師団・第3師団・第4師団・第5師団・第6師団に、近衛は近衛師団となった。

広島城に置かれた鎮台は、第5師団司令部として改編され、市内中心部には歩兵第11連隊、砲兵隊、輜重隊、騎兵隊、陸軍病院や幼年学校等が配され、更には西練兵場の南側には中国憲兵隊司令部や兵器支廠などが整備された。

朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐり戦った日清戦争(1894年=明治27年=7月から95年3月)の時には、明治天皇と大本営が広島城内に移り、西練兵場内には国会議事堂も仮設され、臨時第七議会がここで行われた。当時は東京から広島までしか鉄道が開設されておらず、広島市の宇品港は全国の兵士や軍需物資を大陸に送り出す拠点となった。太平洋戦争時も宇品港は、南方輸送の起点の一つであり、1945年6月には、本土決戦に備えて中国軍管区司令部になった。



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