(徒然道草その31)広島の西条はなぜ「酒都」と呼ばれるのか
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(徒然道草その31)広島の西条はなぜ「酒都」と呼ばれるのか

2017年01月31日(火)1:32 PM

平成28年も10月8日(土曜)と9日(日曜)の2日間にわたり、東広島の西条で「酒まつり」が開かれた。1990年に始まったこのお祭りは、今では20万人を上回る日本酒好きの老若男女や親子連れが集まる県下でも最大のイベントである。「酒ひろば」では日本中の1,000銘柄を超す日本酒が好きなだけ飲める。前売り券1,600円、当日券2,100円である。居酒屋ひろば(中央公園グラウンド)は、ステージで神楽や市民によるパフォーマンスも行われる。大物芸能人もゲストとして招かれ、酒蔵通りは歩行者天国となり、沿道には地元飲食店や企業の屋台が並び、溢れんばかりの人、人で賑わう。酒造会社は酒蔵見学プランを競い合い、お酒の試飲・販売、美酒鍋・うどんなどが振る舞われる。

かつて歴史の授業で、中世から栄えた酒の産地として灘(兵庫県)・伏見(京都府)のことを習った記憶があるが、いまや西条こそ「酒都」である。何しろ1,000銘柄もの日本酒が、この西条に集まってくるのである。その「神通力」はなぜこの地に宿ったのであろうか。

日本酒に関する最も権威ある機関は「酒類総合研究所」である。起源は明治時代に設立された国立醸造試験所で、現在は財務省所管の独立行政法人である。設立以来ずっと東京にあった。北区滝野川に建物は現存し、「赤レンガ酒造工場」として国の重要文化財に指定され、酒造技術の講習会などに使用している。

日清戦争後の軍備拡張に必要な財源を確保するために、明治政府は度重なる増税を行った。これに反発した全国各地の酒造組合などが「研究費の政府負担」を求めて、1901年(明治33年)に醸造研究所の設立建議案を出した。当時はまだ、醸造技術が不安定で、例えば、仮に良い酒ができても、「同じものをまたつくる」ということが不可能に近く、偶然性に頼らなければならなかった。そこで政府も、品質を安定させ、工業化を成し遂げて生産性を高めるために、3年後の1904年5月に「醸造試験所」を設置した。そして翌年から醸造講習会を開始、1911年には第1回全国新酒鑑評会開催した。所管は当時の農商務省ではなく大蔵省とされた。やがて国家の税収の第一位は「酒税」が占めることになる。

その日本で唯一の「醸造試験所」は、1995年7月10日 に東広島市の西条に移転して(多極分散型国土形成促進法に基づく)名称も「酒類総合研究所」と改め、独立行政法人となった。広島大学はかつて醸造学の名門「工学部醗酵工学科」を有していたことがあり、この研究所と大学院教育で連携している。

白と黒のなまこ壁と赤レンガの煙突、西条は酒蔵の町である。日本酒は水と米が命である。海抜200㍍から300㍍の西条盆地は、酒米の仕込みの時期には気温が4~5℃になる理想的な環境で、周囲の山の伏流水が井戸水となって豊富に湧き出る。17世紀半ばから酒づくりが始まり、白牡丹酒造は石田三成に仕えた智将、島左近の子孫が1675(延宝3)年に開いたと伝えられる。賀茂鶴酒造(1623年創業)、山陽鶴酒造(江戸後期)、千代乃屋酒造(1749年)、金光酒造(1880年)、賀茂輝酒造(1895年)、西條醸造(1904年)、賀茂泉酒造(1912年)、福美人酒造(1917年)、亀齢酒造(1917年)の10の蔵元が西条酒造協会を結成している。

西条酒造協会の定める「西条酒」

・伝統的な広島流の三段仕込みにより製造されたものであること

・広島県産の酒造好適米100%使用(八反錦・千本錦・雄町と県内産山田錦)

・会員が管理する井戸水を使用したものであること

・精米歩合は、吟醸酒は50%以下、純米酒は60%以下のものであること



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