(目魁影老の徒然道草 その12)坂上田村麻呂はなぜ、征夷大将軍と呼ばれるのか
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(目魁影老の徒然道草 その12)坂上田村麻呂はなぜ、征夷大将軍と呼ばれるのか

2016年06月21日(火)4:11 PM

江戸時代の日本は農民が9割、武士が1割を占め、そのほかの商人たちは僅かしかいなかった。江戸時代が始まった時の日本の人口は1,500万人であり、明治維新を迎えた時の人口は3,000万人である。従って、総人口2,000万人時代の武士の数は200万人、農民は1,800万人ということになる。
 目魁影老は、数字にやたらとこだわる癖がある。江戸時代は「5公5民」といって、農民は収穫したコメの半分を武士に搾取された。では、1,800万人の農民が生産したコメの半分を、200万人の武士が全部食べてしまったのだろうか――という答えの謎が分からず困っている。当時は鎖国時代であったから、海外にコメを輸出することは出来ない。大阪や江戸では、大名がコメを売って盛んに取引が行われた、と社会科の歴史で習ったが、では誰が買って、何に消費したのか。武士の給料はコメであったから、自分で食べるだけでなく、コメを金に換えて生活必需品を買わなければ、生きていけなかったはずであるが・・・

 桓武天皇は、奈良から長岡さらに京都へと都を移した。平安時代がこうして794年から始まった。当時の日本は、中国に真似た律令制度を設け、九州、四国、本州を支配地域としていたが、関東以北は十分知られておらず、福島から青森まではひとくくりで陸奥(みちのく、後にむつと呼ばれる)という広大な辺境の地であった。しかし律令国家の支配が及ぶのは宮城県松島の丘陵地域までで、それ以北の地は中央政府に服従していなかった。新しい時代を切り開こうとする桓武天皇にとって、この陸奥の地すべてを律令国家に編入することは悲願であった。しかし、征討軍は789年にアテルイの率いる蝦夷軍に大敗してしまった。そこで天皇は、793年に新たな蝦夷討伐軍を派遣し、坂上田村麻呂は4人の征東副使の一人として参戦した。この時の功績により、坂上田村麻呂は796年に陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍に任じられ、征討軍を指揮する全官職を兼務することになった。加えて翌797年に桓武天皇により征夷大将軍に任じられた。この名称は、かつて存在したことのない臨時の官職であった。兵力を徴収し、兵糧米を調達し、戦闘を命じる強大な権限を天皇から与えられたのである。
坂上田村麻呂は、801年に遠征に出た。802年には降伏したアテルイを連れて都に凱旋した。804年に再び征夷大将軍に任命され、3度目の遠征をすることになった。しかし、藤原緒嗣が「軍事と都の建造が民の負担になっている」と主張し、桓武天皇がこの意見を受け入れ、出兵は中止となった。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、臨時職であった征夷大将軍の「尊称」は保持し続けた。
坂上田村麻呂は桓武天皇の崩御(806年)後も昇進を続け、810年には大納言になった。翌811年に53歳で死去した。

蝦夷を屈服させるために設けられた臨時の官位が征夷大将軍であったが、軍を統率する強大な権限を握るこの地位は、後の武家政権にとって、全国の武士の頭領として支配権を確立するには魅力ある称号であった。初代武家政権の平氏を滅ぼした源頼朝は、義経をかくまう東北(蝦夷)の独立政権である藤原氏を討伐するために、この征夷大将軍に任じられることを後白河法皇に要請した。武力と兵糧を握る守護と地頭を全国に配置する任命権は認められたが、征夷大将軍の望みは果たせなかった。陸奥平定を成し遂げた頼朝は後白河法皇の崩御(1192)後、ついに征夷大将軍に任じられた。第2代目の武家政権の成立である。 



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