(目魁影老の徒然道草) 執筆経緯
トップページ > (目魁影老の徒然道草) 執筆経緯

(目魁影老の徒然道草) 執筆経緯

2016年06月10日(金)2:06 PM

70歳になったら、少し文章でも書き始めよう、そう心の中で思って来たが、一向に筆が進まない。生来の無精者の様だ。
 芸備協会の役員の末端に名を連ねることになった。いつもの悪い癖が出て、余分なことを喋ってしまった。ホームページを若者が見てくれるようにするには、面白い随筆を載せてはどうでしょうか、私も何か書いてもいいです、と。 
 ところが、こちらも一向に文章が出来上がらない。ただ頭に中で、とりとめもない愚案が湧いては消えていくだけである。情けない・・・

 人生とは、人として生きていくことである。
 そして、人として最後の大仕事は、死である。
 織田信長は「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と幸若舞敦盛を舞って出陣し、桶狭間を急襲、今川義元の首を討ち取った。信長26歳、義元42歳であった。
そして、信長は明智光秀に本能寺の変で襲撃され、48歳で自害して果てた。
 英傑は50歳にして死ぬ。
 武田信玄51歳、上杉謙信48歳、真田幸村48歳、加藤清正49歳、西郷隆盛49歳、大久保利通47歳、秋山真之49歳。平清盛64歳、源頼朝51歳、足利義満49歳、そして、聖徳太子47歳、後醍醐天皇50歳、楠正成43歳。カエサル・シーザー55歳?、ナポレオン51歳、リンカーン56歳、ジョンFケネディー46歳。さらに、夏目漱石49歳、岩崎弥太郎50歳、五代友厚50歳。
 凡人の私はすでに20年も余生を永らえて70歳に達した。

 普通の教師は、ただ教える。良い教師は、考えさせる。優れた教師は、心に火をつける。どこかで見た言葉である。
 吉田松陰が松下村塾で若者に教えたのは、わずか2年余りでしかなかった。
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感した松陰は、日本を救うために、志を立て動くことを決意する。脱藩して津軽海峡まで旅して外国船を見ようとし、浦賀にやってきたペリーの黒船に国禁を犯して乗り組む。その果ては29歳にして獄死であった。
 吉田松陰は、その死をもって、萩の若者たちの心に火をつけた。
「自らの目と耳で世界情勢を知り、考え抜き、決死の志を持って行動せよ」

 隣藩の芸州浅野藩は、長州薩摩と同盟を結びながらも、なぜ明治維新に乗り遅れたのか。
 新しい時代が始まったとき、長州と薩摩が舞台回しを演じ、佐賀や土佐も脱落していった。薩長藩閥政治と揶揄されるほどに、主役はもとより脇役も端役も、歴史の舞台を華やかに演じるのは、長州と薩摩の出身者であった。
 新しい主戦場である東京で、薩長に伍して活躍できる有能な人材をいかに育てるか。その篤い思いを秘めて、芸備協会が創られた。そして郷土から上京する若者を支援するために、奨学金制度を設け、浅野藩邸の敷地に学生寮を開設した。その学生寮は幾多の変遷を経た後、学生運動の燃え盛った時代の1970年に閉鎖となった。目魁影老は、最後の寮生の一人である。



«   |   »