(徒然道草その32)海軍が選んだ酒「呉の千福」は西条酒を凌いだ
天武天皇により律令制定を命ずる詔が681年発せられ、701年に「大宝律令」(大宝令11巻と大宝律6巻)として、刑部親王・藤原不比等らにより完成した。翌702年(大宝2年2月1日)に、文武天皇は大宝律令を全国一律に施行するために諸国へ頒布し、唐の統治制度を参照しながら、倭国は中央集権化を進めるかたちを整えた。当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなり、地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。その時、陸奥国にだけ置かれた特別の軍政を司る役所があった。鎮守府(ちんじゅふ)である。その長官である将軍の名が729年(天平元年)の資料に初めて見える。
1868年に始まった明治政府は、国家の軍隊を創設するとき、陸軍は「鎮台」、海軍は「鎮守府」を設けた。1869年(明治2年)に「海軍」の創設に着手し、東京・築地の元浅野藩邸内に海軍操練所を開設、海軍兵学寮と改称(70年)、さらに改称されて海軍兵学校となった(76年)。と同時に、日本周辺を東西の二海面に分け、東海、西海の両鎮守府を設置することを決めた。東海鎮守府はまず横浜に仮設され(西海鎮守府は開設されず)、1884年には横須賀に移転され、横須賀鎮守府と改称された。そして1886年の海軍条例の制定により、日本の沿岸、海面を5海軍区に分け、各海軍区に鎮守府と軍港が設置されることになった。横須賀のほかに、1889年に呉鎮守府と佐世保鎮守府、1901年には舞鶴鎮守府が開庁した。しかし予定されていた室蘭は1903年に取り止めとなった。
こうして翌1890年4月21日に呉鎮守府の開庁式典が執り行われた。これに先立って、海軍兵学校は、1888年(明治21年)に江田島に移転していた。この海軍士官を養成する兵学校は、1945年の敗戦までに78期、総計1万2433名の卒業生を出しており、イギリス、アメリカと並ぶ世界3大海軍士官学校と称される。1903年(明治36年)には呉海軍工廠が設立され、軍用艦の建造で次々と新技術を生み出し、潜水艦(人間魚雷の回天も含まれる)や航空機の開発、艦船修理を担う日本一の海軍工廠にまで発展、呉は東洋一の軍港となっていった。
海軍の艦艇は、世界一周航海をすることがある。その時、日本酒も積み込む。当然、赤道を越えて長旅となる。果たして、日本酒の味が変質してしまうことはないか。呉や西条の醸造所は、海軍からの要請を受けて、厳しい品質管理競争を余儀なくされる。
呉市の酒造メーカー三宅本店(1856年創業、1902年からお酒醸造)は海軍とともに発展し、「呉鶴」「千福」といった銘柄を次々売り出し、1933年(昭和8年)には満州千福醸造の設立に踏み切り、わずか20年余で日本一の生産量を誇るまでになった。その三宅本店には、数々の「海軍お墨付き」が残っている。
最も有名なものは軍艦「浅間」の酒保委員長成富海軍中佐の「清酒呉鶴壜詰の証明書」である。
1920年(大正9年)に「浅間」は、南アフリカ、南アメリカを回る220日余りの練習航海に出航した。この時、満載していた日本酒「呉鶴」は航海中、何回かの赤道通過にも変質、変味がなかったとして高く評価を受け、その優れた品質に対し「証明書」を受けている。
以後、「千福」(昭和初期から銘柄を統一)は、全海軍基地へ納入される。
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