(徒然道草その25)アンデスの高地とモロッコのユーカリの樹
アフリカの西北端にあるモロッコを訪れた時のことである。カサブランカの空港に降り、世界遺産でもある古都マラケシュに向かって南下すると、平原の道路脇には、直径1㍍はあろうかと思えるユーカリが何本も生えている。他にはこれほどの大木は見当たらない。
南米ペルーにあるインカ帝国の都クスコは3,400㍍の高地にある。遺跡はすべて石造りであり、山の斜面に生えている樹木は、わずかに細くて背の高いユーカリだけである。高度が高すぎて大木には育たないのであろうが、かつては家や家具を作るのに、このユーカリを使っていたのだろうか。
しかし、疑問が深まる。ユーカリはオーストリア大陸だけに育った樹木のはずであり、なぜモロッコの平原やアンデスの高地にあるのであろうか。
ユーカリをモロッコに植えたのは、植民地支配していたフランス人であった。アンデスの山にユーカリの苗を持ち込んだのも、ヨーロッパ人であった。乾燥地や高山といった厳しい自然環境でも、オーストラリアのユーカリが育つことが分かったからであろうが、ユーカリという樹木が世界に広がったのは、ほんの百年前のことである。かつてのインカは樹木のない文明であり、モロッコのベルベル人の社会も大木の育たない乾燥地の文明であったのだ。
日本人は誰でもお茶を飲む。それだけではなく、室町時代から戦国時代という厳しい戦乱の世の中で、茶道という高い精神文化まで生まれた。そのお茶を中国から日本に持ち込んだのは、鎌倉時代の禅宗の僧たちであった。神社にたくさん見られる銀杏の大木、実はこの銀杏の木が日本に中国から伝わったのも鎌倉時代である。それ以前の神社や寺院の風景も文化も、いま私たちが見ている姿とは、全く違っていたのである。
日本が豊かな経済大国に成長する以前には、野菜も果物もこれほど種類が多くはなかった。キューイやパプリカが店頭に並ぶようになったのはここ数年のことであり、ほんの50年前には、レタス、オクラさえなかったし、トマトを食べるようになったのも太平洋戦争後にアメリカ文明が日本に広がったからである。冷蔵庫の普及もこうした食生活の進歩を促す大きな要因であった。
私たちは、中国は世界一の人口大国であり、13億人が住むということを知っている。しかし、三国志の時代の中国の人口は400万人に過ぎず、縄文時代の日本の人口は30万人に満たなかったことを知らない。13億人と1億人のひしめきあう現在の姿とは全く無縁の世界だったに違いない。日本の面積の85%の広さの国土を持つニュージーランドは、現在でも人口が400万人である。北島にあるオークランドには100万人以上が暮らすが、南島にあるこの国第二の都市クライストチャーチの人口は34万人である。南島を時速100㌔ものスピードで走ると、行けども行けども、出会うのは放牧された羊だけで、家も町も一向に見えないという、不思議な感覚を味わうことになる。
私たちは、世界を旅行したり、歴史を考えるとき、正しい「目線」で眺めなければ、「実像」をとらえることが出来ない。そればかりか、全く間違っていることにさえ気が付かないことが多い。
東西冷戦が終われば、核戦争の恐怖が晴れて、アメリカは世界の救世主として尊敬を集めるはずであった。しかし、国際経済は弱肉強食の一色に染まり、世界は富める国と貧しい国の格差が広がり、アメリカこそ諸悪の根源と考える人々がテロを引き起こす、新たな恐怖の時代となってしまった。
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