(目魁影老の徒然道草 その18)イスラーム共同体は布教する軍隊であった
三宝に深く礼拝し帰依することで仏教徒になる。
聖徳太子は十七条憲法で「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」と説いた。悟りの体現者である「仏」、仏の教えを集大成した「法」、法を学ぶ仏弟子の「僧」、すなわち仏法僧に従って生きることが、仏教徒の信仰である。
司祭・牧師などに洗礼を受けることでキリスト教徒になる。洗礼とは頭部に手で水滴をつける儀式で、聖職者のことをプロテスタントは牧師と呼び、カソリックでは司祭(あるいは神父)と呼ぶ。
イスラーム教には、僧も牧師も司祭もいない。職業としての聖職者はいない。
王族も、富裕者も、農民も、砂漠に暮らす放牧民も、神の前では全く平等である。父親がアラブ人のイスラーム教徒であれば、その子供は総てイスラーム教徒とみなされ、元服式のような儀式をモスクで行えば、イスラーム教徒になれる。しかし、母親がアラブ人のイスラーム教徒であっても、父親が民族の違う異教徒であれば、その子供はイスラーム教徒とはみなされない。二人のイスラーム教徒の証人をたて入信式を行い、信仰を告白しなければならない。
イスラーム法は棄教を認めない。棄教者は原則として死刑である。また、女性は異教徒との結婚を認められず、イスラーム教徒と結婚しなければならないとされている。こうした男性と女性の人権格差はなぜ生まれたのであろうか。
ムハンマドがイスラーム教を開いた時代のアラブ社会は、一部にキリスト教が広がってはいたが、メッカでは多神教が信仰されていた。ムハンマドの教えに最初に帰依したのは妻だけであった。次いで親族や近親者に少しずつ信者が増えていったが、メッカの多神教徒からは、激しい攻撃を受けて命の危険にさらされていた。信仰を守り布教を進めるために、ムハンマドは親族や信徒たちと「イスラーム共同体」を結成した。ムハンマドは預言者であるとともに、優れた軍人であった。
ムハンマドには男の子がいなかったため、その信仰と意志を引き継いだのは親族であった。イスラーム共同体は初代カリフ(預言者の代理人)にアブー=バクルを選出、2代目カリフにウマル、3代目にウスマーン、4代目にアリーが選ばれた。アブー=バクルとウマルはムハンマドの妻(4人以上の複数いた)の父親であり、ウスマーンとアリーはムハンマドの娘の夫である。特にアリーはムハンマドの養子として大切に育てられ、ムハンマドの孫にあたる2人の男の子の父親でもあった。この4代続いた親族によるイスラーム共同体の統治者のことを「正統カリフ」と呼び、クルアーンが編纂され、幾多の戦闘で支配領域が拡大し、アラブの覇者となった。
アリーは661年に暗殺され、ムアーウィヤが実力でカリフに就いてウマイヤ朝を興し、以後カリフは世襲となり、正統カリフの時代は終焉した。この新しいカリフに従わないイスラーム教徒が、「ムハンマドの血筋こそが、預言者の代理人になれる」と主張し、イスラーム信仰に最初の分裂が起こった。アリーを支持する信徒たちが開いたのが「シーア派」である。しかし、イスラーム法は男系を認め、女系を認めないため、ムハンマドの孫たちはカリフに就任することはなかった。男は戦闘で布教を進め支配地域を広げるのが役目であり、女はその家系を守り男に貞淑を尽くすのが役目――これは男女差別ではなく、男と女は役目が違うという1,400年前の時代の世相を受けた考えである。
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