(目魁影老の徒然道草 その4)バイクで121か国を回りました
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(目魁影老の徒然道草 その4)バイクで121か国を回りました

2016年06月10日(金)2:33 PM

 無料の市民講座で愉快な話を聞きました。目魁影老は日本・オマーン協会の会員として、ホームページのお手伝いをしています。その中のレポートの一つを転載します。

 皆さんこんにちは、バイクの松尾です。
これまで15年間かけ121カ国、37万キロを走破してきました。日本から1500㏄の大型オートバイ(ホンダ・ワルキューレ)を船便で運び、ノルウエーの北の端からアルゼンチンの南の果てまで、そして海面下410メートルのイスラエルの死海から標高5,200メートルのチベットの峠まで、またある時は西サハラの2,000キロの砂漠では死ぬ思いで走り、さらにモスクワからサハリンまで途中モンゴルを回ってシベリアを横断し、5大陸を縦横無尽に、バイクで一人旅。オーストラリアを一周し、ニュージーランドも走りました。
メキシコから中米を縦断してパナマまで走った時は、その先のコロンビアへは航空便でバイクを運ばざるを得なくなり、運賃7万円を支払った。フランスからイギリスへドーバー海峡を渡るときはユーロトンネルを使った。客車やトラック専用の列車の他にオートバイと乗用車を運ぶ列車が走っていた。
アマゾン川では夜空に北斗七星と南十字星の両方が輝いていた。赤道直下ではものすごい雷に襲われた。赤道というから広い道の様なものかと思ったら、道路に細い黄色い線が引いてあり、モニュメントが立っているだけだった。その赤道を挟み、水の回転が違うというのを実際に見た。例えば風呂の栓を抜くと北半球では水は右回りに落ちていく。ところが南半球では左回りに渦巻く。そして赤道上では、回転しないで吸い込まれていく。皆さんは信じられますか?
ペルーではインカ帝国の遺跡マチュピチュも訪れ、背後の山ワイナ・ピチュに登り、麓の露天温泉(実際は温泉プール)のある町では2泊した。アルゼンチンで見たペルトモンノ氷河は幅4キロもあり、一番美しかった。北米のナイアガラの滝、南アフリカのヴィクトリアの滝、そして世界最大の南米のイグアスの滝にも行った。
イラク湾岸戦争のときには、ヨルダンのアンマンからバクダッドまでタクシーで出掛けてみた。ガソリンが安いためタクシー料金は1万円であった。アメリカは大量破壊兵器を隠し持っているとしてフセインを非難していたが、バクダッドは平穏な雰囲気の都市だった。北京経由で飛行機に乗って北朝鮮を訪れたこともあるが、上空から眺めた北朝鮮は、かつて回ってきた不毛の砂漠とは全く異なり、緑に覆われており、この国が飢えることはないと感じた。
大型バイクで走るときは、大量のガソリンや生活用品を満載しており、重量は450キロにもなる。転ぶと、自分ではバイクを起こすことが出来ない。誰かの助けが必要になる。無人地帯を走るときには、力を貸してくれる車が通りかかるのを待つしかない。強風の吹き荒れる砂漠では道路が砂で覆われて見えなくなる。そんな時は、大型トラックの後ろについて走る。
アラスカでは交通事故にあった。12本あるあばら骨のうち10本が骨折した。頭も10針縫った。一か月くらい入院しなければならないかと思ったら、病院は10日間で退院しろという。ところが、何しろアメリカは医療費が高い。740万円も支払った。幸い保険に入っていたので助かった。アラスカから日本までのオートバイ輸送代は30万円掛かった。日本でオートバイを修理して、また、一人旅に出掛ける。
2014年2月にはアラブ首長国連邦のドバイを出発、オマーンまで走り、その国に3月、4月と2カ月滞在した。オマーン男性と結婚して移住した日本女性、スワードさん、丸山さんたちに、マスカットでは大変お世話になった。オマーン南西の都市サラーラまで、砂漠の中に真っすぐに整備された1,000キロの道路を2日間掛けてひたすら走った。世界中の国々を回り、とても良い国だと気に入ったところには、数カ月滞在した。そんな国の中で、オマーンはそれまで感じたことのない安らぎを味わった。それは「この地こそ竜宮城だ」という不思議な感覚であった。一時中断をはさみ、イランやアルメニアを経てシベリアを横断し、2015年9月に帰国した。 
            ☆           ☆
 松尾さんは旅の途中の南米で、アフリカから来た人に出会ったとき、随分遠くから旅するなと思ったそうだ。ところが、大西洋を真ん中にした地図で見ると、何と南米とアフリカはすぐ隣ではないか気付き、驚いた。松尾さんは、それから以後は日本を真ん中とした地図で世界を見ることはやめた、という話を冒頭に紹介した。
 松尾さんは72歳(2016年4月現在)、佐賀県嬉野の出身で、旧国鉄時代は車掌として働いていたが、定年が迫った57歳の時にふと「体が動かせるのもあと少し、それなら世界の果てを見てみたい」という思いに駆られて、JRを早期退社した。英語は全く話せないが、佐賀弁と少し習った手話で押し通し、ビザや国境検問所の入国書類も日本語の平かなで記載する。出費は1日5,000円以下と決めて、ヨーロッパでもアメリカでも中東でもアフリカでもオートバイで一人旅をする。ナビもない時代から地図を頼りに、道に迷いながらも、笑われて、笑わせながら、人々の親切に泣き、走り続けている。

 



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