(目魁影老の徒然道草 その2)アラブ海洋交易の覇者オマーン物語
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(目魁影老の徒然道草 その2)アラブ海洋交易の覇者オマーン物語

2016年06月10日(金)2:24 PM

アラビア半島の東南端、日本から見れば中東の入り口にあるオマーン国は、日本ととても親密な国です。2012年には日本との国交樹立40周年を迎え、2014年に訪問した安倍首相とカブース国王の間で「包括的なパートナーシップ」を共同声明で謳い、経済関係の強化発展にとどまらず、教育、文化を含む幅広い交流を進めています。今回は、その人口400万人のオマーン国の話です。

日本には多くの縄文遺跡ある。オマーンにも居住遺跡や丘の上に並ぶ墳墓あるいはメソポタミア文明の青銅器に使われた銅の採掘跡が残っている。ホルムズ海峡から東南端のアラビア海にかけて3,000㍍級の岩山を頂く山脈が連なり、かつてはペルシャの支配する地域であった。2世紀ころイエメンからアズド族が移動してきたことにより始まるオマーンとは、アラブ人の部族が定住した内陸部を指す呼称で、都はオアシスのニズワであった。7世紀には6,000人のアラブ人が、40,000人ものペルシャ人と戦って勝利して、彼らを駆逐した。
メッカに興ったイスラーム共同体は、原始宗教や異教徒との戦いに勝ち急速にその支配地域を広げた。しかしオマーンに住むアラブ部族は、征服や布教によってではなく、予言者ムハマンドが派遣した使者の説得により、イスラーム教をいち早く受け入れた。イスラーム最大の帝国を築いたアッバース朝(750年~1258年)の都バクダッドが世界最大の100万人都市として繁栄を極めた時代には、アラビア湾交易が盛んになりオマーンはその恩恵を享受した。中継貿易の拠点ソハールは、千一夜物語(アラビアンナイト)の「シンドバット」たちが往来し、インドや東アフリカから象牙・香料・木材・奴隷などをもたらした。

海洋交易を狙ってインド洋に進出してきたポルトガルは、1508年にオマーンのマスカットを占領し要塞を築いた。100トンを超す大型帆船にとって水深の深いマスカットは天然の良港であった。岩山に囲まれていて外敵から守られており、モンスーンの直撃からも外れている場所にあるが、オマーン部族の住む内陸部から離れていて、いわば孤立した港に過ぎなかった。そのためオマーン全域を統治する拠点としては難点があったが、インドから遠く日本にまで交易を広げるポルトガルは、オマーン内陸部の植民地支配には全く関心が無かった。
1650年にマスカットを奪回したヤアーリバ朝は、内陸部と沿海部の統合を進め、自らもインドで大型帆船を建造して、ポルトガルと交戦を続け、海洋交易の覇権を奪還していった。1741年に興ったブーサイド朝は1749年には内陸部からマスカットに遷都し、海洋国家へと変貌を遂げていった。1807年に国王となったサイード大王は1800トンもの大型帆船と船団を保有し、支配地域は広くインド沿岸から東アフリカに及び、海洋帝国オマーンは最盛期を迎えた。1832年には都をマスカットから遥か遠い東アフリカのザンジバルに移した。
 1856年にサイード大王が死去すると、オマーンはマスカットとザンジバルに国家が分裂して競い合うようになり、陰りが見え始めた。大型帆船に代わって蒸気船が海洋貿易の主役の時代になると、インド洋交易の覇権はオランダへ、そしてイギリスへと移っていった。1891年にはイギリスの保護国にされてしまった。イギリスに留学した事のあるカブース皇太子は、1970年にクーデターで国王に就任すると、国名をマスカット・オマーンからオマーンに変え、鎖国を止めて開国し、翌1971年にはイギリスからの独立を果たした。



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