(目魁影老の徒然道草 その13)ポーランドが国家と認められ、そして消滅した
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(目魁影老の徒然道草 その13)ポーランドが国家と認められ、そして消滅した

2016年06月21日(火)4:17 PM

966年にキリスト教を受け入れることでポーランド公国は誕生し、神聖ローマ皇帝からキリスト教世界の一員として認められ、1025年にローマ教皇から冠を授けられることによって、正式にポーランド王国が誕生し、国境が画定した。
 それから800年後には、プロイセンとロシアとオーストリアに占領されて国土が3分割され、世界地図からポーランドという国名は消えた。しかし、その苦難の時代にもポーランド人は言語と文化を失うことなく、音楽家ショパンと、物理学者キューリ夫人という二人の天才を生んだ。

 国民の生命と財産と安全を守ることが国家の責任である――と日本の政治家たちは訴える。そのためには平和でなければならない、海外からの侵略を許してはならない、とさらに訴える。安全保障とは、海外からの脅威を防ぐことであって、海外を侵略したり、領土を奪い取ったり、植民地をつくったりすることであってはならない。しかし、かつて帝国主義は、海外に向け拡張することで、国家の繁栄を築こうとした。さらにその昔から、民族絶滅を図ったり、金銀や領土を奪い取ることを、人類は世界中でやってきた。キリスト教の国々に対してローマ教皇が、異教徒の殺戮と侵略を認めるお墨付きを与えた。
そんな時代に生きた吉田松陰は、日本民族を亡国の危機から救うには、武士も農民もない、長州藩や徳川幕府もない、同じ民族としてともに協力して、西欧列強の侵略に立ち向かわなければならない。そのためには、敵の優れた国力や武力を知り、それに負けないだけの統一国家をつくり上げることが急務だ、と考えた。その熱い思いを松下村塾で若者にぶつけ、国禁を犯して行動に走り、獄死した。吉田松陰の若すぎる獄死は、若者の心に火をつけ、日本を救った。
 日本は島国であるという幸運のお陰で、異民族に支配されたことも、国土を奪われたこともなかった。しかし、蒙古襲来を「神風」によって撃退したという経験、そして日清・日露戦争に勝利したという驕りよって、国づくりの道を誤り、軍部の独走に引きずられ、明治維新から77年後、ついに国家が滅びた。
アメリカという異国に占領され、その属国として、核の傘の下に守られながら平和を享受すること70年。しかし世界情勢の激変で、戦後77年にして、再び亡国の危機に陥るのではあるまいか。かつて、共産主義という理想に向けて走る左翼学生であった目魁影老も、そんな不安を抱くようになった。
 軍事力の増強や同盟の強化だけだは、国家も民族も守れない。国民一人一人の高い志と、強いアイデンティティーが不可欠だ。
 「強くなれ日本!強くなれ日本民族!」そう祈りながら生きている。

 ポーランドはなぜ亡国の運命を避けられなかったのか。隣国の異教徒の征討と教化に手を焼いていたポーランドは、ドイツ騎士団の力を借りるため、領国内の一部クルムラントの領有権と引き換えに、1226年にドイツ騎士団を招聘した。ポーランドのバルト海沿いに東西に広がるプロイセン地域は、いまだ異教徒の世界であったため、神聖ローマ皇帝は、騎士団にプロイセン領有を認める勅書を与えた。こうしてドイツ騎士団は16世紀初頭までプロイセンの異教徒改宗と植民地化を推し進めた。
 1241年にはモンゴル軍がポーランドまで進攻した。ローマ教皇は全キリスト教徒に対して共同防衛を命じるが、ポーランド諸王侯の連合軍とドイツ騎士団は、装備・物量で劣っていため、敗れてしまった。まもなくモンゴル軍は撤退するが、ポーランド南部は、モンゴル軍に略奪され、住民は殺され、ほぼ無人の荒廃地となっていた。逃れていたポーランド人は少しずつ戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。国王は復興のため、ドイツ人の入植を進め、ユダヤ人も多く受け入れた。彼らは都市を築き、商業や銀行業を始め、ポーランドの地にドイツの法制度、新しい農業、文字、文学や進んだ技術を移入していった。1096年にからおよそ200年続いた十字軍の時代にはユダヤ教徒も弾圧を受け、14世紀の半ばに発生した黒死病(ペスト)のスケープゴートとしてユダヤ人が迫害されるなど、ヨーロッパ大陸では反ユダヤ主義の歴史は古く、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから、多数のユダヤ人がポーランドに移住して来た。
ドイツ騎士団は、ハンザ同盟にも加わりバルト海東部沿岸地域で、木材、琥珀、ポーランドの穀物、さらにはロシアの毛皮などの交易にも携わり、プロイセン内陸部にまで城塞や都市を築き支配力を強めていった。一方でドイツ騎士団に対抗して「プロイセン同盟」が結成されて、ポーランド王国の庇護を求めるなど、抗争が広がった。また、プロイセンの東にある異教徒のリトアニアは、ドイツ騎士団に対して警戒を強め、1385年に38歳のリトアニア大公はキリスト教徒に改宗して、12歳のポーランド王女と結婚し、ポーランド・リトアニア連合を結成、1410年にドイツ騎士団を破った。この時の戦後処理を巡り、ドイツ騎士団は、リトアニア大公のキリスト教改宗は偽装だと反発し、「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである」と主張した。
 その後、プロイセンはポーランド・リトアニア王国の支配下に入ったが、1525年には騎士団を廃して公国になり、1657年にはポーランドの宗主権から脱して独立国に、さらに1701年にはプロイセン王国へと発展していった。
1569年、ポーランドはリトアニアを併合してポーランド王を統一君主とする「ポーランド=リトアニア共和国」となり、最盛期には黒海にまで及ぶ広大な領地を持つ大国として北欧に君臨した。国王は世襲ではなく、人口のおよそ10%を占めるシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって決定した。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。ドイツに対抗するため、フランス人の王族が国王に選ばれたり、デンマーク国王が兼務することもあった。
 18世紀に入ると外国が選挙に干渉するようになり、ポーランド貴族共和国を取り囲むロシア帝国、プロイセン王国、オーストラリア帝国が強大な専制君主の国家として覇権を競うようになった。武力で劣るポーランドは、しばしば国土を侵略され、ついに三分割されて、1795年には国家が消滅してしまった。その時、多くの知識人がフランスに亡命していった。
 欧州を征服したナポレオンは、フランスに亡命していたポーランド人の願望を受け、1807年にプロイセンの支配地域を解放し、ワルシャワ公国を設立した。1812年にナポレオンがロシアに攻め入ると、かつてのリトアニア領土も解放されることを期待して、ポーランド軍団も参戦した。しかしナポレオン軍は「冬将軍」に敗れて壊滅し、ポーランド軍人の多くも戦死した。そして1815年のウイーン会議でポーランドはまたも分割された。異民族の受け入れに寛容で、多様性のある民族からなるポーランドは、強力な絶対王政国家になることが出来ず、欧州の大国として再び復活することはなかった。 



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