(目魁影老の徒然道草 その6)イベリア半島の戦国時代は800年続いた
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(目魁影老の徒然道草 その6)イベリア半島の戦国時代は800年続いた

2016年06月10日(金)2:43 PM

ヨーロッパ人はキリスト教をもってこの地に現われ、ただ目をつむって祈れと教えた。再び目を開けたとき、土地は私たちのものでは無くなっていた。あるアフリカ人指導者の言葉である。

 イベリア半島は、フェニキア人の植民地、ギリシャ人の植民地、カルタゴそしてローマ帝国の領土となり、さらには西ゴート王国が支配した。その西ゴート族を破った異教徒のアラブが718年から1492年まで王朝を築いていた。この異民族支配からの国土回復運動をレコンキスタと呼ぶ。キリスト教徒による民族国家を樹立するために、およそ800年もの戦国時代が続いたことになる。
 1492年1月6日に最後の都グラナダが陥落するとアラブ王朝は、イベリア半島から駆逐され、北アフリカへと逃げ延びていった。そしてスペインはアラブ民族の支配から国土を完全に奪還した余勢をかって、海外へと船出していった。

 地球は丸いことが証明されたのはマゼランの世界一周航海(1519年―1521年)によってであるが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの書いた天体論によって古くから知られていた。レコンキスタを成し遂げたスペイン国王は、イタリア人の野心家コロンブスの提案を受け入れ、大西洋を渡ってインドを目指す新航路探検に資金援助を決めた。1492年8月3日に出港したコロンブス船団は、2か月後の10月11日、ついに黄金の未開拓地のアメリカの発見に成功した。
同じイベリア半島のいわば分国であるポルトガルはこれに刺激を受け、黄金と香料を求めて東回りでインド航路の開拓に乗り出した。1497年7月8日、ヴァスゴ・ダ・ガマ艦隊がリスボンを出港し、喜望峰回りで、翌年5月21日についにインドに上陸した。
 スペインとポルトガルは、黄金と香料と領土と奴隷を求めて、海洋帝国として世界中を荒らしまわった。そして、それまで地中海の交易を独占して、中東やアジアからの香料輸入を握り、興隆を極めていたヴェネチィアは、一気にその覇権を失っていった。

<ウキペディアの引用>
1493年の9月に17隻・1500人で出発したコロンブスの2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名付けた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。
これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。
銃も鉄器も持たないインディアンたちは、ゲリラ戦で報復を試みたが、スペイン軍の武器の威力と彼らがばら撒く疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。
 コロンブスが何カ月も病いに臥せっている間、やりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することであった。
1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃方法は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。



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